風の音が聞こえませんか

「風の音が聞こえませんか」は小笠原慧の小説だ。小笠原慧とは精神科医岡田尊司ペンネームだ。だからこれは精神科医の書いた小説ということだ。「風の」は去年文庫化された。読まれているということなのかな。 私は岡田尊司の著作はわりと読んでいる。新書サイズのものばかりだが、文章が平易で簡潔で読みやすい。 関東にいた頃、大学病院で統合失調症の診断を受けた。その時の主治医はチック症やアリス症候群の本を上梓したりするビッグネームな教授だった。私はかなり理論的に多重人格障害について2時間ほど話した。教授はおおらかな表情で微笑みを絶やさない。私は終始リラックスし、話は弾んだ。 だけどさ、教授は言う。貴女は違うようだね。要するに教授は解離性同一性障害の患者を診たことがないようだった。謙遜だとも言える。私はDIDのわかりにくさを言葉を選んで伝える。教授は考えていた。とりあえずさ、教授は私をじっと見る。統合失調症、でいいんじやない?私は腕組みをして睨み返す。納得がいかない。唸る。薬で声は消えるよ、と教授。私は黙った。 DIDの症状に転移がある。陽性転移は恋愛のようである。私なりの考えだが、クライアントに転移を起こさせないような精神科医はむしろ残念だ。陽性転移は片思いなのでわりかし辛い。なければないで越したことはない。私はこれまでほとんどすべての主治医に出会った途端転移を起こすくらいの心の飢餓があるようだ(何の自慢なの)。高校時代はタヌキ面した歴史の教員に転移していた。強烈な逆転移で内科の主治医から診察室で密かな恋心を打ち明けられたこともある(これ自慢です)。 大学病院の精神科では転移が起こらなかった。百歩譲って(何を!)教授は巧みな手法で転移を避けていたのかもしれない。教授というからには百戦錬磨なのだろう。 タイトルに戻ろう。 私は「風の」を読みながら統合失調症を患う叔父のことを考え続けていた。叔父の発病は二十歳の頃で、原因は失恋だった、というのが親戚中の了解だった。叔父はたいていひとりで何やら語り続けていた。しかし車の運転もしていたし、父の鉄筋工場で働いていたし、そんな精神病ではあったが私は数え切れないくらいの時を叔父と一緒に過ごしたものだ。だから幼かった私は叔父の奇行に遭遇しても、あーそういう時もある、くらいに思っていた。 小学4年の春だった。その年私達一家は叔父と祖父母と同居をしていた家を出て、引越しをした。私は車で数十分ほどの祖父母の家に行くことがよくあった。送り迎えは叔父の車だった。ある日朝食で食べた何かが良くなかったのか車中で吐き気を催したのだが、叔父はHという苗字の見えない誰かと議論の真っ最中だ。私は困った。我慢の限界に来た時車が止まり、降りて吐く私の背中を叔父がさすっていた。大丈夫か?大丈夫か?叔父は泣きそうだった。 儚げな笑顔、長い指、深い瞳、しゅんとした二枚目の叔父に私は恋心を抱いていた。叔父も私がお気に入りでいつも優しく微笑んでくれた。 1度だけ入院中の叔父をひとりで見舞ったことがある。叔父の主治医は叔父がもう退院出来るくらいに寛解していて、病院から映画館に行ったりしていると言った。主治医の猛烈な勧めで私は怖々叔父と面会した。叔父は変わっていなかった。病院内の喫茶店のようなところだった。水色のパジャマをダンディーに着こなして、叔父はここはいいよと言い、私のためにホットコーヒーを注文してくれた。 私が統合失調症の診断を受けた日、私は帰りの電車の中で見えない叔父に話しかけた。……一緒だね。叔父は孤独だったろう。主治医の説明では退院を勧めても病院を出たくないと言っていたらしい。きっと怖かったんだろうな。わかるなあ。わかるわかる。怖いよ。診断とはあいつ頭オカシイんだぜ、というレッテルとも言える。かすかな拒絶に敏感な私がビッグネームな教授に転移を起こさなかったのはそれだったのかもしれない。 トーシツでいいじゃん。私は叔父を励ます。叔父はもう死んだかな。岡田尊司という人の眼差しにはトーシツ患者の思いを癒す何かがある。小説は荒唐無稽であかんやろ、的なものだったが、「風の」を読んだとき私は泣いた。時には自分を可哀想に思ったっていいかもしれない。私は一人ではない。理解者がいないわけではない。そして時間がかかってしまったが、大好きだった叔父を私は今は誰よりも理解しているというのがなにより自慢だ。その孤独も恐怖もちょっとの勇気もだ。