おときさんと得月楼

オクラを茹でてすだちと薄口醤油をかけて食べるのが好きである。ズッキーニはオリーブ油で炒めて塩をふる。もずく酢、茄子の塩揉み、炙った油揚げ。油揚げには辣油が美味しい。そして玄米ご飯を少しだけ食べる。

今年の春次女がひとり暮らしを始めて家を出て行って、主人との二人暮らしが始まり、食事は完全マクロビになった。二人暮らしは楽だ。おじさんのご飯作りは楽だ。時々魚を焼いたり、休日に冷えたビールを出すなら主人は大喜びだ。

3人の娘達は全員主人似である。目鼻立ちの整ったくっきりした顔をしている。私だけがポヤーンとしたベビーフェイス。そして私は実年齢よりも10くらい若く見られることが多く、私達はよくステップファミリーと間違われた。私は後妻だと思われるのだ。いや、3人共私が生んだんですけど、と説明する。

私の母もそうだった。母は目鼻立ちの整った美人系で、私達3人兄妹(兄と弟)は皆ちっこい目の父親似だった。

母は中学1年の私の髪にパーマをかけた。そしてアイメイクを仕込んだ。13歳の私は母のお古のラメ入りのニットを着て店の手伝いをした。母は私の眼を二重まぶたにしてつけまつげをつける。そして将来はアンタに一軒スナックをあげるから、私を養ってよと言うのが口ぐせであった。学校へ行く時以外、私はアイメイクを欠かさなかった。

19歳。私はつけまつげや濃いメークをやめた。水商売っぽいものを拒絶し始めたのだ。結婚出産。子育てに追われる毎日が始まると見繕いはますますさっぱりとしたものになった。

私が再びラメ入りのニットを着たのは30歳を過ぎたころだ。私は占い師をしていた。どうして始めたのか?その辺がどうもまだ思い出せない。主人が夜帰って来る。夕飯を済ませて、お風呂に入る。そのあと私は占い師として夜の街へ出て行くのだ。毎日ではなかった。そして今はすっかり足を洗った。カタギの生活をしている。

ある日占い師の私に、母が「私を占ってよ」と言ってきたことがあった。占いはいろいろやっていたが、まずは西洋占星術のために母に誕生日を尋ねたが、母は自分の誕生日を知らないと言う。母の出生は戦争中で、母の両親は生まれた子どもを届ける所がわからなかったようだ。ちょっとびっくりした。自分の誕生日を知らない人に会ったのは初めてだった。でも私はそんなに困らなかった。ホロスコープなどはあまり当てにならないのだ。その時の母の悩みは恋愛だったり対人関係だったりしてさばくのにそれほど手間ではなかった。

私、アンタを抱っこしたことが無いのよ。母はさらりと言った。えっ、嘘。私は驚く。1度も?うん、1度も、だって可愛くなかったの、あの人にすごく似てて、嫌だったの。母は無邪気にうちあけた。当時占い師をしていたのは2人の人格。マリとMさんだ。マリは言った。幼稚園の運動会で、1度、オンブしてる。母は笑った。そうそう覚えてる。あの時、オンブした、アンタよく覚えてるね。……マリは笑わなかった。

宮尾登美子の「楊梅の熟れる頃」という短編集がマリのお気に入りだった。「おときさんと得月楼」は女三代で仲居業を続ける一家の話だ。マリが居なくなってしばらくはこの本を見るのが辛かった。「おときさん」に出てくる気だての良い主人公は45歳。ある日ひとり娘が高校を辞め、仲居になると言う。この子だけは幸せになって欲しい。おときさんは泣く。……改めて読み返す。

私の母は水商売には向かない人だったかもしれない。気分の浮き沈みが激しく感情のコントロールがむつかしい。深情けほどの熱い何かはたいてい長続きしない人だった。器ではないのだ。ただしそんな母が厳しく仕込んだ娘は後々占い師として金を稼ぐ。因果なものだ。

宮尾登美子の小説は水商売を営む母や叔母達の悲しい人生にどこか重なっており、うまく書かれてはいるがやっぱり悲しい。母の死に目に私は合わせてはもらえなかった。私が発病して、母は私に会わなくなって、安らぎを取り戻せたのかな。私は生まれて来てよかったのかな。私という存在は母の人生を苦しめるものだったのかな。長年マリによって守られていた私と母との相克が野放しとなり、私は今母という人とそんな対面をする。

しかしもうないものねだりをすることは無い。今や私は親である。私は自分の娘達を本当に大切に思って育てて来た。虐待が連鎖すると危惧する専門家は多い。確かに願うところのアットホームにはならなかった日々もあったけれど、私は不完全な親だったかもしれないけれど、人が人を愛するということを子育てを通して私は学ばさせてもらった。親というものは譲れない心を持つのだと、こんな風に身を挺して子を守るもなのかときちんと味わうことが出来た。過去からの呪縛をこれでもかと断ち切って進み続けることをあきらめないでよかった。マリは今姿を変え私の中で生き続けているのかもしれない。

最近眼鏡をコンタクトレンズに替えた。

鏡を見て、時々ふっと自分の顔が母に似て来たなと思う瞬間がある。母は陽気な日には可愛く笑っていたこともあった。今はまだむつかしいが頑張って私も微笑むことにしよう。私は少し強くなったのかもしれない。母が私のことをどう感じていたとしてもやっぱりもう一度母に会いたい。

生まれて来てごめんね。 それから私を産んでくれてありがとう。