ロクデナシ

今日は診察日だった。調子が良いので電車を乗り継ぎ出かけた。快速結構多い。じゃんじゃん来るね。新快速とか通勤快速とかJRにもいろいろある。関東にいた時埼京線の座席の全く無い、ただの箱だけっていうとんでもない車両に乗ったことがある。今住んでいる所はそこまで都会じゃないからそういう悲しい車両にはまだ出会わない。

通勤時刻だったが敢えて各駅停車に乗る。各駅停車は人気がないのか空いている。乗り継ぎが好きである。そしてなんとなく来た電車にふらっと乗るのも好きである。病院へは乗り継ぎしなくても一本で行ける時もあるのだが、今日はふらふら3本の車両を乗り継いだ。

ポールセローの鉄道の本を読むと、日本は時刻表通りに列車が到着するから素晴らしいということをふと思う。これが当たり前と思っていると時間通りに、予定通りに事が運ばないことがストレスになったりする。そんな時ふらりと電車に乗るというただそれだけの事が冒険になる(小さいな)。何分にどこへ着くとか、その次は何行きに乗るとか一瞬わからなくなるのだが、もういいじゃん、どこへでも行くよ、という感じがちょっとあって、癖になる感じだ。無計画とは違う。計画の変更とも違う。ああ、西に向かっているな、くらいの大雑把な確認の取り方で、それでも進むのだ。

なんていうか私は越える、とか超える、とかにすごく惹かれるのだ。超越、とか大好きだ。国境を越える。限界を超える。日常を超越する。DIDは超えて行くよね。なんてーか越えてかき分けてなんぼだな。しかしながら日常の枠の中で越えるや超えるはむつかしい。履き違えると単なる迷惑な人だ。かく言う私も自分ではまともに毎日生きているつもりなのに気が付けばはみ出し者となっている事が多かった。

くどいようだが自分からはみ出すつもりは毛頭無い。そしてルールを破るのは最もいけないことだ。足並みを揃える、肩を並べる、何かを他人と分かち合う。そうやって生きているつもりだ。少ないけれど友達もいる。超えるや越えるは自分の問題だ。向い風の丘に立つ。ここで踏ん張る。出来るか。

アサーションとかコミットメントとか言う言葉がある。無理してやっても意味は無い。人からの評価を怖れていると自分がぶれて行く。自分を知るってあんまり出来ないことだけど、小さい感情を押し殺してしまう癖は曲者だ。小さい声にこそ耳を傾けよう。

ロクデナシという人には言わせておけばいい。人と違っているところがあったとしても迷惑をかけていないなら悩む事は無い。なにもかもがうまく行くことなんてむしろ無い。大切ななにかは必死になって守らなければいけないが、1度にたくさん欲張るなら目算を誤るワナとなる。慎み深く自分を貫こう。

JPは穏やか。いつも優しいね。現実の貴女の主治医も優しい人だよ。JPは微笑む。

ロクデナシはブルーハーツもいいけど越路吹雪のやつもいい。優しい優しいロクデナシだ。