この世の果てまで

昨日、一週間中断していたジョギングを再開した。走れなかった理由はいろいろあるが、今日久しぶりに走ってなんだかこうやって毎朝走るというのも面倒なことだと思った。これも不調のひとつかもしれない。目の前を小さな男の子が笑いながら横切る。TTトットだ。TTトットは私の交代人格だ。彼の名前はトムティットトットといって、絵本に出てくる森の妖精だ。

TTトットのブリーフワークは済んでいる。なんで今頃出て来たのかな?すっかり姿を消していたじゃないか。今頃なんの用があるというのか。だけど懐かしいTTトット。不意に涙が込み上げる。私だけなのかな。交代人格を間近で見ると強い感情が込み上げる時がある。悲しい、淋しい、嬉しい、楽しい。どれも当てはまるし、どれも当てはまらない。正直わからないのだ。自分の抱える感情がよくわからないなんて嘘みたいだよね。でもそうなのよね。わからないのよ。

そうやって一緒に走ってくれるんだね。なんでそんなにはしゃいでいるのか。目眩がして立ち止まる。思考が止まる。ああもう走りたくない。辺りは明るかった。知らぬ間に朝になっていた。

DIDは惨めなものだ。解離は確かに必要だったのかもしれないが、記憶の蘇りが脳内を混沌とする。こんにちは、と交代人格が現れてもそれが一体なにを意味するものなのか、それで一体何をどうすればいいのか誰も教えてはくれない。

TTトットは無邪気に見え隠れを続ける。対話するなど無理だ。だって話したことなど1度もない相手なのだ。解離は狂っているのではない、とよく書いてあるけど、じっさい頭が狂うってこのことだ。解釈不能な世界に否応なしに放り込まれたようで手も足も出ない。

だけどわたし、TTトットを忘れたことなど一度もなかったよ。突然そんな声がする。そうだよな。彼は私の起点なのかもしれない。なす術もなく弱り果てた主人公は窮地で彼に助けてもらう。確かそんな話だったはずだ。彼はまさしく私の影武者なのだ。そしてTTトット自身幾人もの影武者に変容して行った。最悪の場面で不死鳥のように蘇り何事もなかったかのように振る舞う。解離は曲芸だ。でもそんなずるいことをしてうまく済ませるなんて虫のいい話はやっぱりない。ツケが回って来たんだな。

「この世の果てまで」という曲が脳内で流れている。昔の曲だ。この曲の題は「ジ・エンド・オブ・ザ・ワールド」だ。歌詞はよく知らない。ただ子どもの頃「この世の果てまで」という題がインパクトがあり、ただそれだけでこの曲が好きだった。

世界の終わり。私にとっての世界の終わりは今ある命の終わりだろうな。だから死ぬまでは生きよう。みっともないような、恥ずかしいような50年だったけどこうして生まれて来た事の意味を考えよう。やっぱり何はともあれ今生きていられるという事実を受け止めることだ。わき起こる感覚を見つめよう。たとえTTトットが私の脳をめちゃめちゃにするとしても私は自分で始末をつけるしかない。交代人格は皆同様に可哀想な存在だ。だってなんてったって私にしか見えないのだからね。

明日走れるかな。

もう無理。絶対やだ。