check it out

Instagramを始めた。写真を撮るのは楽しい。ただし才能は無いようで上手にカッコ良く撮られた写真を見るとどうしたらあんな風に撮れるのかなといつも思う。撮りたいと思う瞬間にシャッターを切れることはまず無い。まあそんなに高望みもしていないけれど。

精神科へ行き始めて治療が始まり、この10月で15年になる。まだまだこれからも通うことになると思っているけれど、15年前に比べると私は少しは変化している。

埼玉時代に調子を悪くしてそれまで書き溜めた日記を勢い全部処分したことがあった。コクヨのC掛けのルーズリーフが5年分と、やっぱりコクヨの黒ビニールカバーのノート5冊。捨てた当日の記憶は無い。

写真もそうだけど、素敵!カッコいい!なんていう感動ばかりが続くのは嘘っぽくて退屈だ。そんなに上手く行くことばかりじゃない。昨日も冷蔵庫の中で納豆が賞味期限切れになっていた。納豆はもともと腐っている。だから食べようと思えば食べられないことはない。それでも賞味期限がプリントしてあるのだからやっぱりそれまでには食べておきたい。きっとそれなりに納豆なりに不味さが進行しているのだし。いやいや納豆は美味しいよ。

日記は捨てたはずなのに、日記の一文を時々思い出したりするのは書くという作業の力かもしれない。書くことで感情を区切って固定する。そして次に進むことが出来る。

DIDの治療は複雑だ。15年前は治療すればするほど悪くなるような感じがあった。ほどほどの悪路を休み休み進んで来た。

日記の習慣は幼い頃から続いている。眠れたか、食べられたか、痛みはあるか、心配事はあるか。書くことは幾らでもある。

世界で最初に納豆を食べた人は偉いなと思う。DIDの回復はそれとちょっと似ていると思うのだ。

check it out。チェケラ。ドラマチックなワンシーンが映画よろしく脳裏に現れるなんていうの私はあまり無かったような気がするのだ。

例えば私が高校生の時、母のお店で働いていたY子さんが入院中の私に手作り弁当を届けてくれた。私はY子さんに少し憧れていた。2段のお重で煮物や揚げ物がいっぱい詰まったとっても美味しいお弁当だった。

ところが最近になって、そんな事は実は無かった、それは寂しかった私の空想だったと判明した。「なに言ってるの?私そんな事してないよ」とからから笑うY子さんの顔まで一緒に思い出したりして。

この類は賞味期限切れの納豆事件である。事実を受け入れたくともなんとも悲しい。そもそも腐敗と熟成の違いは何であろうか。何かを失った記憶をようやく取り戻したということか。そして私は虚空のむなし手を確かめる。

もっと厄介なことは私は入院中の空想弁当の味までをも覚えているということだ。賞味期限切れの納豆が何の役にも立たないのと同様、ひとたび取り戻すという作業を経たこれらの記憶の残像はあとは捨てるしかない。

書くことは捨てることだ。

そしてちゃんと書くためにはありのままを見つめる作業が必要だ。単に有る無しだけではない。記憶はゼロか百かではない。冷蔵庫の納豆だってひたすら出番を待っていたのだから。

高校生の私を受け持っていたのはT2という人格だ。

輪郭の取れない雲の流れのように、悲しいとも、嬉しいともつかぬ、感情を抱くT2。若く、強く私を守ってくれてありがとう。

彼女に向かって私はシャッターを切る。

T2も私を見ている。ちょっとふてくされた顔で、どこか誇らしげで。

納豆呼ばわりしやがって。

私たちは仲良くなれそうだ。

Instagramにはシェア出来ないけれど、この一枚って感じだね。