それから数日後事件が起きた。
いつもように僕を訪ねて森へやってきたフライデーが、僕の居ないことに気づき、あちこち探し回り、スズカケの木の根元で気を失って倒れている僕を見つけた。フライデーはぐったりしている僕を大慌てでジョージのところに運んだ。
目が覚めた僕が最初に見たのは均等に並んだ細い線だ。遠くの方で黄色っぽい明りがゆらゆらとゆれている。……ヨギヨ、カイルヨギヨ。女の人の声がした。それは泣いているような、か細いささやくような声だった。温かくなつかしく、その声は僕をふたたび深い眠りへと導いた。
「調子はどうだい」
ジョージの声がして反射的に体を起こすとしっぽに激痛が走った。僕は仰向けに寝かされており、ジョージは僕の胸に聴診器を当てていた。
「水を飲むかい」
僕はジョージの持つスポイトからごくごくと水を飲んだ。空になったスポイトを僕が両手で掴んで離さなかったのでジョージは笑った。彼は丁寧に僕の両手をスポイトからはがし、グラスに差し込んでスポイトを水で満たすともう一度僕に飲ませてくれた。
ジョージによれば僕は丸一日眠っていたそうだ。しかしスズカケの木の下でフライデーが僕を見つけたのがおとといの午後だから、僕はもっと長く眠っていたことになる。軽い脱水症状としっぽが根元で脱臼している以外はどこも悪いところは無かった。そもそもリスのしっぽというものは痛みやすいのだとジョージは言った。
僕はジョージのデスクの左端に置かれた漆塗りの赤い重箱に寝かされていた。重箱の底には柔らかい白いタオルが敷いてあり、ちょうど頭の当たるところには白いガーゼが四つ折りで枕代わりに置いてあった。ジョージのハウスは暖房が利いて暖かだった。きけば森の気温はぐんぐんと下がっているそうだ。
僕は時々スポイトで水を飲む以外なにもすることがなかった。痛いのに懲りてずっと横になったまま、時々眠り、時々は起きていた。ジョージが書類を書いたり、ハーブティーを飲んだりするのを僕は眺めた。電話も何件か掛ってきた。夕方になると彼は、デスクで作業をしながらサンドイッチを頬張った。サンドイッチは2種類で、薄切りの黒いライ麦パンにクリームチーズとサーモン、そして何かの葉っぱが挟まっているもの。もうひとつはやはり薄切りのライ麦パンに赤いベリーのジャムとバターをサンドしたものだった。ジョージは2つ目の甘い方のサンドイッチを食べながら僕をちらりと見て、ライ麦パンの端っこを小さくちぎって横になったままの僕に食べさせてくれた。僕はライ麦パンを頬袋に詰めなかった。何度も噛んで飲み込んだ。
夜が来て、朝になった。僕の体には頭までガーゼが掛けられていた。ハウスには誰もいなかった。僕はゆっくりと起き上った。多少痛みは残っていたが動けないというほどのものではない。僕はひどく喉が渇いていた。あたりを見回すとデスクのすぐ横にタイル張りの小さな流しがあった。僕はそろそろと歩き、流しにたどりつくと赤や青の小さな丸いタイルの目地に残っている水をしばらくなめた。
ジョージが戻ってきた。動けるようになった僕を見てジョージは喜んでいた。そしてジョージの隣にジョージより背の低い、ジョージより体の細いひとりの男の人が立っていた。彼は首に巻いていた赤と緑と黄色のストライプのマフラーをほどき、紺色の綿のジャンパーを脱いで、おい、暑すぎないか、と言った。そうして僕に近づいた。
「やあ、君がフランクリン?」
フランクリン?僕が戸惑っているとジョージが言った。
「フランクリンっていうのは君の名前だよ。僕が付けたんだけど悪くないだろ」
名前? 僕の名前?
フランクリン、フランクリン、フランクリン。僕は頭の中でつぶやいた。
「はじめまして、僕はうさおだよ。本当の名前はホウハクスっていうんだけど、呼びにくいから誰も呼んでくれないんだ。だから君も、……フランクリン君もうさおって呼んだらいいよ。おい、なんかフランクリン君って言いにくいな。あっはっは」
うさおは笑った。
これが、うさおだった。彼はこの森で僕が二人目に出会った人間だった。僕とうさおはこうして出会った。
実のところこの物語は僕とうさおの物語だ。
彼と出会わなければ僕は短いリスの一生をみじめに過ごしただろう。とはいえ彼と出会わなければ僕は何かを失う深い悲しみを知ることもなかっただろう。やがて僕は誰かに自分を差し出す喜びも得ることになるのだが。
勇気、希望。ちっぽけな一匹のリスにもこうしたものが必要なのだから、この世界のすべてにはもっと大きな力が必要なのだろう。世界と言ってもそれは僕にはいつだって狭い。リスである僕はすこし駆けてはまた引き返す。僕にはずっと世界はそのくらいの大きさでしかなかった。(つづく)