小説 丘の上から ①秋の章 5

ステファン・グラッペリだよ。

うさおが言った。

うさおはジョージのハウスのキッチンでチーズソースのパスタを作っている。ジョージはデスクで書類に向かっていた。

ジョージのキッチンにはアウトドア用の鍋しかないのだと、うさおは笑いながら言った。うさおはいつもそうしている、という感じで壁の棚からステンレスのライスクッカ―を持って来て、パスタを茹でるためのお湯を沸かす。お湯はすぐ沸いた。鍋の底でぐつぐつという音がし始める。

僕は目を閉じてスピーカーから流れる音に集中した。そして時々チーズのかたまりをかじる。しょっぱいものは食べさせちゃだめだ、とジョージは言ったが、少しくらいならとうさおがくれたのだ。

リスも音楽を聴く。

ステファン・グラッペリは最高だった。哀しいような、嬉しいような。ステファン・グラッペリは切ない音楽だった。泣いているようなメロディだった。それでいて、だけどもう決心したんだ、変更はなしさ、といくつもの音が止むことなく重なり合って続いていく。

コンコン。

誰かがドアをノックした。

手が離せないんだ、入って。うさおが言った。

トルコブルーのTシャツに青い短パン、レモンイエローのアンダーシャツ。シューズは濃い青だった。ミラーのサングラスにイヤホン。イヤホンのコードはピンクだ。僕は一瞬ひるんだ。やせた、背の低いその女性は自分で名前をエルといった。サングラスをはずすとテーブルの上の僕を見つけた。

「あんたがフランクリンね」

エルの瞳は薄い茶色で、髪も茶色くて、短く切った毛先はくるんと四方に巻き散らかっている。

「ねえ、部屋暑くない?」

エルはそう言ってTシャツを脱いだ。アンダーシャツの裾をひらひらとやる。

「その恰好で走ってるの?もう秋だよ」

デスクから立ち上がりジョージが言った。

「食べよう」

3人はうさおの作ったチーズパスタをお祈りしてから食べた。僕には小さな白いお皿に菱型の穀粒が数粒入れてあり、うさおがそういえば思い出した、いう風に、壁に掛けてあったジャンパーのポケットからトウモロコシの粒をひとつかみ取り出すと、ぱらぱらっとそれに足した。菱型の穀粒はオーツ麦だった。こげ茶色のその菱型の粒はすごく香ばしくて美味しかった。

「麦っていうのは野原には生えてこない」うさおが僕に言った。僕はなんだかわからないけどうなずいた。

「麦は特別な種なんだ。大麦、スペルト小麦、エンマー小麦、オーツ麦、ライ麦

エルがアヒルのような口をして、また始まった、と小声で言った。

「ジャン・バティスト・ド・ヴィルモラン『人類の種』だね」ジョージはそういうとパスタのおかわりを取りに立ちあがり「今日は何を焼いたの?」とうさおに尋ねた。

「おとといプンパニッケルを4本も焼いたから今日は何も焼かなかったよ。アマゾンで採れたてのライ麦全粒粉を1キロ買ったから、今朝は新しくルヴァンリキッドを仕込んだんだ。昨日僕がいない間に宅急便が来て、フライデーが受け取ってくれた」

そう言うとうさおが僕を見た。僕はもう何日もフライデ―に会ってない。

「フライデーは元気ですか?」

3人は黙った。ハーブティー飲むかい? ジョージが席を立った。僕がやるよ。うさおも席を立った。エルは僕をそうっと右腕に乗せた。アンダーシャツは化繊でつるつるとしたがなんとか僕はふんばった。

「フライデー調子悪いのよね。あんたにすごく会いたがってたわ」

「病気ですか?」

「もうずっと悪いの」

ジョージがマグカップになみなみのハーブティーを持って席に戻り、うさおがほら、と言ってパーコレータをエルに差し出した。エルはハーブティーが嫌いなのだそうだ。僕を腕から下ろして、これだと苦いコーヒーしか出来ないのよね、と言いながら慣れた手つきでコーヒーを作りはじめた。

「君がショックを受けなければいいんだけど」ジョージが言った。彼の説明によればフライデーは僕がスズカケの木から転落したことを自分の責任だと感じ、感情の統制が効かなくなり、最もひどい時には暴れて、みんなで押さえつけたというのだ。僕は当惑した。あの穏やかで明るいフライデーが暴れるなんて。

「マリが居なくなってからよ、フライデーはそれからおかしくなちゃったの」エルはキャンプの時に使うステンレスのマグでコーヒーをすすった。

「リンダ・ローリングもずっと来てない」うさおが言った。

「あんたが死んじゃうんじゃないかって、心配したのよ、きっと」

「だけど」うさおはそういうと長い間黙った。

「だけど?」エルが尋ねるとうさおが僕に手招きをした。

「リスはいいなあ」

「そうね、すごく小さいのね」

「賢いよ」ジョージが言った。

3人にほめられた僕は居心地が悪く首をきょろきょろとやった。

「君には話しておいた方がいいのかもしれない」ジョージが言った。

「ええ聞きます。話してください」

「フライデーは、うん、とっても賢くて、とってもいいやつだよ。」

「はい、わかります」

「その、彼は……」

「ロボットなのよ」エルが言った。ジョージがうなずいた。

 

 

少なくとも何年も、3人が知る過去において、フライデーは強健な兎のかたちのロボットとして、なんの不調も示さなかったという。3人がこの丘にやって来た時にはフライデーはすでにいて、どちらかといえば頑固で、ビジネスライクなその個性はみんなの人気だった。唯一フライデーの秘密を知るマリという女性がある日突然失踪し、フライデーはひどく落ち込んだ。そうしてマリの帰りを待っていた。

「ある日森でリスを見つけたって、ねえ、大騒ぎしたのよねえ」エルが悲しげに微笑んだ。

「僕はリスは、フランクリンはフライデーに良い影響を及ぼすと思う」ジョージが言う。うさおはずっと黙っている。

僕はフライデーの笑顔を思い出していた。ロボットだって?

ステファン・グラッペリはいつのまにか演奏を止めていた。