小説 丘の上から ①秋の章 7

轟々と何かが音をたてている。それは2CVのエンジン音ではなく風の音だった。息を吸い込むとひんやり冷たかった。丸められ、地面に置かれたジャンパーのポケットからごそごそと外へ出た僕は身ぶるいした。僕はしばらく茫然と立ち尽くした。そこは広々とした場所で一面が白い光で満ちていいる。轟音ははじめうるさいほどの大音量に感じたが、抑揚を抱いたその低い音は、よく聴けばいつかどこかで聴いたようで懐かしい。歩きだした僕の足を砂が捉える。それは小さなリスの足をうずめてしまうほどきめ細かい砂粒だった。

うさおは膝を抱えて砂浜に座っていた。うさおの横顔が幼い。白く透き通った頬骨と脆い鼻筋、柔らかで小さな顎。さらさらの前髪が風に舞いあがる。

僕はうさおの肩に飛び着いた。うさおの薄い茶色い瞳が僕を見た。その時僕の顔面にも強い風が吹いた。僕はぎゅっとうさおの肩にしがみついた。風に吹かれた前髪を手で払いのけると、うさおは僕を腕に乗せた。

僕たちの前に広がる、一面の白い光は海だった。その海は波が無いように見えたがあり得ないほどの遠浅で、じっと目を凝らせば白い光の遥か果てから、とても低い、這うようなさざなみが連なりスローモーションでやってくる。

「……マリはここを歩いて……」

うさおが口を開いた。うさおの顔から甘い香りがした。うさおはさっきからルートビアを飲んでいるのだ。その香りはリコリスだった。

「ねえ」うさおが尋ねた。

「ミイファ。君をペットショップで見つけた。彼女のこと、僕もよく知ってるんだ。本当は泣き虫で、淋しがり。すごく不器用」うさおは新しいルートビアをプシュっと開けた。

「はじめミイファの友達は僕ひとりだったんだ。なにもかもに疲れたミイファの胸の奥で僕は生きていた。その時ミイファはまだ小さなかわいい女の子だったよ」

僕は何かを思い出し始めていた。均等に並ぶ細い線の向こうで揺れるオレンジの光と、いまにも消え入りそうな女の人の、僕を何度も呼ぶ、泣いているような声……。

「解離なんだ」

「カイリ?」

「疲れきって限界だった彼女の脳は現実を切り離したんだ。そしてその日から世界は僕とミイファの2人になった」

「ミイファ」僕がそう言うとうさおは良い名前だ、と言った。

「その名前も僕が考えたんだ。美しいの美、平和の和。美和と書いてミイファと読むんだよ。ドレミファソラシドのミイファさ。なかなかいいだろ」

強い風にあおられた砂が宙を舞う。

リスである僕に、その2人の世界の隠されたすべてがあらわにされていく。

むつかしいことじゃない。うさおは言った。(つづく)