小説 丘の上から ①秋の章 8

「美和はひとりぼっちだったんだ。産まれた場所も、誕生日もわからない。施設で育ったんだ。施設ってわかる?……騒がしい子どもの声。消毒の匂い、きゅっきゅって鳴るリノリウムの白い床。‥‥誰のものでもない汚れた熊や兎のぬいぐるみたち。壊れたままのブリキの車と顔が錆びついた警察官の人形たち。大きすぎる窓。数の足りないブランコと滑り台‥‥でも美和は幸せだったよ。……ある時まではね」

うさおはそう言って僕を腕にのせたまま立ち上がり、スニーカーを脱いで素足になった。

「下げ潮だね」

「サゲシオ?」

「干潮がはじまったんだ」

「カンチョウ?」

「見てて。ほら、海がだんだん遠くなる」

うさおは海に入る。

「行ってみたくない?あのずっと向こうまで」

「ねえ、声が、したんだよ。ヨギヨって。女の人の、声だった」僕は海に落っこちないようにうさおの腕にしがみついた。

「そうだよ。それが美和だよ。君をとてもかわいがっていた。君とジェシカとをね」

ジェシカ?

ジェシカ。可哀相なジェシカ。

「ベビーのリスを二匹買ったんだ。……君は思い出せるよ。……ジェシカは弱かったんだ。気管支をやられてた」

僕はとっさにうさおのほっぺたを掴んだ。びっくりしたうさおはバランスを崩してよろけ、僕は海の中にぼちゃんと放り出された。僕は水中に一瞬漂った。うさおは僕を苦も無く拾い上げ2CVに走って戻った。うさおの出してくれたタオルはトランクの中で温まりその上すごく柔らかだった。うさおはていねいに僕をタオルでぬぐった。

……美和、……ジェシカ。

僕は思いだしていた。僕がずっと黙っているのでうさおは僕の顔を覗き込んだ。

「これを」

うさおは小さなテープレコーダーをどこかから出した。とつぜん男の声が歌い始めた。アカペラだった。僕はこの曲を知っている。ビリージョエル。『ザ・ロンゲストタイム』。美和の好きな曲だ。

美和の茶色い瞳。白い指。甘いアロマの薫る部屋。三階建のゲージの中で僕は暮らしていた。

ジェシカ。

僕たちは一日中一緒に過ごした。一日中見つめ合い、一日中笑った。いっしょに何回もバク転したり、美和のくれたアーモンドを割ったりした。美和が買って来てくれた小さな靴下の中に二人で出たり入ったりした。ジェシカはペレットが嫌いだった。水を飲む時後ろ足をすこしだけふんばった。僕よりも早く眠り、僕よりも遅く起きてきた。ジェシカ。‥‥ジェシカ。

僕はとつぜん喉のあたりが詰まったような、首が重たくなったような妙な感覚に襲われた。僕がゆっくりと体を横たえたのでうさおはびっくりして僕の顔を覗き込んだ。

「大丈夫かい?」

僕は動物の出すようなキイキイ声を出した。体ががたがたと震える。

僕は泣いていた。

うさおがテープのスイッチを切った。ロンゲストタイムが終わった。

ジェシカが死んだということを、僕は受け入れられなかった。僕は何かが死ぬということがどういうことなのかわからなかった。いや、今だってわかっていない。だからジェシカを返してほしいと僕は美和に何日も訴えた続けた。

ジェシカのいないゲージの中で僕はひとりペレットをかじった。不味いペレットを我慢して食べていれば、美和はジェシカを返してくれるかもしれない。僕はバク転をやめた。おとなしくしてお利口にしていれば美和はジェシカを返してくれるかもしれない。

「美和はね」うさおが言った。

「決して泣かない子どもだった」うさおは僕を手の中に包んだ。

「泣かないんじゃない。泣けなかったんだ。美和の脳は悲しみというものを認識できなかったんだ。だけどジェシカが死んでしまった時、彼女は泣いたんだ」うさおはそう言って眉間にしわを寄せて困った表情をした。だけど息をフッとやって、頬をぷくっとふくらませて、小さく肩をすくめておどけてみせた。

「これだけ、今日はこのことだけ伝えたいんだ。君がこの世界にやって来たことの意味さ。ゲージの中にいた君が何故ここへやってきたのか。すべては美和の特殊な能力なんだ。むつかしいことじゃない。君には役割があるんだ。たいへんなんだよ。美和は今危機なんだ。美和は今苦しんでいる。苦しくて苦しくてどうしていいかわからない。こんなことは初めてなんだ。僕も、この世界の誰も美和を救えない。

「君は、君だけは違う。君は外へ出て、美和のところへ戻って彼女を支えなくちゃいけないんだ」

うさおはもうおどけていなかった。僕は考えていた。ジェシカのいないゲージを僕はさっきまで思い出していたけれど、今は美和のことを考えていた。

僕はうさおの掌から飛び出して助手席に降りた。そしてずっと疑問だったことをうさおに尋ねた。「ここはいったいどこなんですか?」

「ここは美和の脳の中なんだ。ここは美和の脳が作った世界なんだ。空想じゃない。妄想でもない。ある意味ここも現実なんだ。さあ、行こう」

うさおはエンジンをギリギリっとかけた。後輪が砂地を深くグリップして2CVは発進した。僕はうさおの手招きに応えて、行きと同様彼のジャンパーのポケットに飛び込んだ。

「君を丘の上に連れていくよ」

「ねえ!」僕はエンジン音の中で叫んだ。

「なんだい?」

「音楽をかけて!」

うさおは助手席に置いてあるさっきの小さいカセットレコーダーのスイッチを入れた。

ビリージョエルが歌い始めた。

メイビー、もしも君がさようならと言っても、僕は歌い続けるよ。そして大切なのは、君がどれだけ僕を必要としているかなんだ。すごくすごく長い時間さ。僕は君を抱きしめるんだ。

2CVは揺れ続けていた。

ポケットの中で、僕はもう一度思い切り泣いた。(つづく)