小説 丘の上から ①秋の章 10

「兎たちをケージから出す」うさおは言った。

誰も何も言わなかった。ただチェロだけが演奏を続けている。くねくねと曲がった、急な山岳の岩場を、強健な馬に乗って駆け下りるような演奏だった。

演奏が終わるタイミングでエルはステレオのスイッチを切った。チェロが止み、カフェは静けさに包まれた。誰も何も言わなかった。僕はフライデーを見た。フライデーはもう夜が来ている窓の外をずっと見ていた。群青色の絵の具を何度も塗り重ねたような秋の夜の闇だった。

「反対だ」静けさの中でそう言ったのはジョージピーターズだった。ジョージのバリトンがログハウスに響いた。

「このタイミングではむつかしい。リスクが高いよ」

どん、という音がした。見るとエルが床に倒れていた。パトリックがかけ寄り優しく抱き起した。ジョージがそのままそのまま、というように手で合図した。パトリックは悲しい顔をした。失神してぐったりしたエルの体を支えた。

(エルは兎たちが怖いんだ)フライデーが僕の方を見て、僕にだけわかるように念じた。

(怖い?)僕は返した。

「フライデー、君はどう思う?」ジョージがフライデーに尋ねた。

(兎たちは相変わらずだよ。それにいつでも出たがってるよ。だけど……)

「一匹ずつ出せばいいよ」うさおが言った。うさおは笑顔だった。

「ジョージ、僕に少し考えがあるんだ。僕たちは兎たちのことを誤解してるのかもしれない。あの3匹の兎はこれまでも美和を困らせた。だけど3匹は確かにこの森の中に棲んでいる。たとえケージに閉じ込めたとしてもこの森、つまり美和の脳の中に今も居続けているんだ。だから」

「仲間だ」ジョージはうさおを見ながら言った。うさおは微笑んだ。

フライデーが泣き始めた。泣く様子はまるで人間のようだった。肩を震わせて唇をぎゅうと閉じ、大粒の涙がテーブルにぽたっぽたっと落ちた。僕はフライデーの肩に乗り顔を覗き込んだ。フライデーは僕を両手で包むとテーブルに突っ伏していっそう激しく泣き始めた。嗚咽を込み上げ泣くフライデーは5歳くらいの男の子のように見えた。

「フライデーはもう大丈夫だよ」うさおが言った。

「うん、ちゃんと泣いている。ちゃんと泣けるっていうのは大切なことだ」ジョージも言った。「それで君の考えっていうのはなんなの?」

「プレゼントだよ」

「プレゼント?」

「うん。3匹それぞれに僕たちからプレゼントをあげるのさ」

「攻撃衝動を和らげる?」

「うん。そして大切なのはちゃんと対話することなんだ。3匹は自分たちが死んでいると勘違いしている。だからそうじゃないよって、生きているんだよって、教えるんだ」

パトリックが右手を挙げた。はいどうぞ、とうさおが笑って指名した。

「あー、ええとー、手伝うよ。出来ることは。僕はここに来てまだ日が浅い。その3匹のラビットはそんなに手ごわいの?」パトリックはよっこいしょとエルを抱き直した。

「通常、解離状態に至る心理的なストレスというのは大きなものだ」

「それはー、暴力?」パトリックは慎重に言った。

「加えられた『き害』の種類や強さではない。脳内に兎が発生するほどのストレスは瞬間に取り込む『悪意』の総量だ」

「いじわるされたんですね」僕は言った。言わずにはおれなかった。フライデーはそんな目に遭った、そんな気がしたのだ。

「そうだよ」ジョージは右手を差し出して僕を招いた。フライデーはまだぐずぐず泣いていたが、僕をジョージに渡してくれた。僕はジョージの腕に乗った。

「それも信じてた大人にだ。美和の場合は両親は姿を消していたから、施設の寮長や保母だったり、学校の教員だったよ。まったく信じてたんだよ、彼女は子どもだったからね。裏切りとか不信とか、そんな甘っちょろいものじゃない。子どもだって人間なんだ。人間という生き物は悪には悪を返すんだ。殴られたら殴り返す。それもひとつのコミニュケーションだと言える。ひとつの方法だよ。

「兎たちが発生しなければ美和は死んでいた。殴られたり、川に沈められたり。美和は兎を発生させてエンパワーし、状況に抵抗して闘ったからなんとか生き延びたんだ。だけど美和は悪意に接するたび兎たちを発生させて対処する、そんな習慣がついてしまった」

「僕は思うんだ」うさおが言った。「フライデーを見てよ。少しずつだけど人間になっている」

「人間になんて成らないほうがいいよ」ジョージは僕をそおっと撫でる。

「違う。……違うよ」うさおは言った。だけどそれきり黙ってしまった。

悪に悪を返す。兎は怖い。僕は頭の中で繰り返した。エルはまだ起きなかった。パトリックが何か言おうとして右手で合図した。ところがうさおもジョージも気づかない。僕はパトリックを見た。 その時だった。それまでずっと黙っていたホウドンジャが動き出した。ノートパソコンをバチンと閉じた。使い込んだヌメ革のブリーフケースにノートパソコンをしまうと立ち上がり、席を離れて店から出て行こうとした。うさおは彼女の腕を掴んだ。離してよ、という風にそれを振り切る彼女とうさおは揉み合いとなった。突然ホウドンジャは脱力して床にしゃがみ込んだ。うさおは彼女の顔から目を離さなかった。僕はうさおに駆け寄った。森へ来てからなのか、それともリスとはそういうものなのか、僕は行動的で積極的である。もっとも小さなリスに出来ることなど本当に限られていた。僕はうさおと彼女の傍に立ち尽くしていた。(つづく)