小説 丘の上から ①秋の章 11

マリの店の北の林を抜けたところにローザの家は建っている。ローザは兎ではなく女の子だった。そしてケージではなくちゃんとした家に住んでいる。しかしよく見るとドアは外側から南京錠が掛けられている。フライデーは手に余るほどの大きな鍵をジャケットのポケットから取り出してドアを開けた。

僕とフライデー、うさお、ホウドンジャで朝1番にローザを訪ねたのだ。

ドアが開いた。

そこには無表情のローザが立っていた。ローザは僕たちを見ると肩までの黒髪を手に持っていたベロアの黒いリボンでリフトアップした。肌色のローザの小さな両耳に黒真珠のピアスが光っている。黒いピンタックのブラウスを着ている。僕はフライデーの首の毛の中で息を潜めた。低い天井の、まるで穴倉のようなローザの部屋に僕たちは通された。

「久しぶり」

ローザは微笑んだ。

「何か飲む?」

「ありがとう。今日は話があってさ」

フライデーがそう言うとローザは頷いて腕組みし、フライデーの首の毛の中の僕を見た。

「美和が飼ってるリスのフランクリンだよ」

「どうも、はじめまして」

僕は毛の中から出なかった。

ローザのワンルームにはテーブルはなく、白いカウンターがあった。ホウドンジャがカウンターでノートパソコンのディスプレイを開いた。そこには背広姿で歩く若い男性の姿が映し出されていた。背の低い、少しずんぐりした男だった。

「迫田光治。最低の男よ」ホウドンジャは吐き捨てるように言った。

「君にはずっと見えてたんだろ?」うさおがローザに尋ねた。ローザは頷いた。

「美和は追いかけないわ。逃がしたのよ。所詮その程度の男だったの。ほっとけばいいじゃない。もうあたし疲れたわ。ここの生活も悪くない。もうあたしに構わないで」そう言ってローザはうつむいた。

「妊娠してるんだ」

うさおが言った。ホウドンジャはため息をついた。

「知ってるわ」ローザは返す。

「だからあいつは逃げたのよ!それでいいのよ。期待したところで傷つくだけよ」

「そうよ」ホウドンジャが口を開いた。

「‥‥‥お兄ちゃんのこととか、‥‥‥施設のこととか、‥‥‥何もかも彼は知ってしまったの。偶然だったの。彼の目の前でお兄ちゃんは電車に飛び込んだんだから。‥‥‥私たち錯覚したの。わたし彼の優しさを勘違いしたの。馬鹿だったの。‥‥‥いっときの感情よ。‥‥‥ダメよ。私なんかと一緒に居たら彼は幸せになれない」

わたし?お兄ちゃん?

(ホウドンジャは美和自身なんだ)

フライデーが僕にだけわかるように説明した。

僕はそれでもさっぱりわからない。

「妊娠してるんだ」

うさおは繰り返す。

「僕が育てる。大丈夫、やって行けるよ」

(子ども殺しはよくないよ)

そう言ったのはフライデーだ。

「あたしにどうして欲しいの?男を説得するの?」

「違う。迫田光治はもうどうでもいいんだ。美和は今日子ども殺しに行く。それを止めて欲しいんだ。‥‥‥ローザ、君でなくっちゃ無理なんだ」

ローザは黙りこんでいる。

しばらく沈黙が続いた。

「本当にそれでいいの?」ローザがホウドンジャに尋ねた。

「わたしこれまで生きて、生きて、生き抜いたからこうしてここにいる。‥‥‥あのね、何かわたしのお腹の中にいるらしいのよ。なんかわかんないけど、いるのよ‥‥‥。これ何か生きてんのよ。この何かを今消してしまったらわたしはもうこの先進めないって、時々ふっと思う時もあるの。だから怖い。すごく怖い。これが、この何かが消えてしまうのは怖いの」

「‥‥‥先へ進もう」うさおがホウドンジャの肩を抱いた。

ローザが言った。

「わかったわ。あたしここから出る。美和とスイッチする。今から電車に乗せて1日海へでも行くわ。それでいいでしょ」

「これ、君にプレゼント」うさおがローザに紙包みを手渡した。

中からワックスペーパーに包まれたスコーンがふたつ出て来た。

「何よこれ」

「お昼に食べてよ。君の好きな紅茶のスコーンだよ」

「ふうん。ありがとう。すごく嬉しいわ」

ローザは丘の上まで駆けていくと突然すっと消えた。スイッチングが完了したのだとフライデーがつぶやいた。

僕は一体何のために同行したのだろう。いろいろとわからないことだらけだった。尋ねたいことはたくさんあった。マリの店でスコーンにパクついているフライデーを見て、僕は様々な質問をしたかった。

ホウドンジャは再び忙しくパソコンのキーボードに向かっていた。

ちょっと考えて、死んだジェシカのことを勇気を出して思い返した。僕は恐怖にかられた。美和の体内で始動した小さな何かについて、持っている限りのイメージを動員した僕は、微かだけれど脳内に変化を感じた。だけどこれもいっときの錯覚なのかもしれないのだ。その微かな変化はすぐそこの大きな哀しみの波を呼び寄せるようでもあり、僕を尻込みさせるのに十分であった。

僕は黙って、ローザが消えていった丘の上を見続けていた。(つづく)