小説 丘の上から 冬の章 2

「美和は自殺なんかしませんよ」パトリックが言った。エルを椅子に座らせるとスタスタと歩いてホウドンジャの隣に立った。テーブルに両手を付いてホウドンジャの顔を覗き込んだ。「逃げるんだろ。また。僕の時のように」パトリックは悲しい顔をした。

「‥‥‥そうよ」ホウドンジャがポツリと言った。

「逃げるって?お腹の赤ちゃんはどうするんですか!」僕は2人に割って入った。「殺すんですか、生きているんですよ。お腹の子は生きた命なんですよ!」僕は叫んだ。

「‥‥‥綺麗ごと言わないで」ホウドンジャが僕を睨みつけた。「生きることは闘いなのよ。毎日生き続けることはたいへんなことなのよ。それでも生きることがそんなに大切?生まれて来てこの先どんないいことがあるっていうの」

「君がいなくなったら迫田光治はどうすればいいんだ、ドンジャ、彼は君を失って、独りきりになるんだよ」うさおが言った。

「独りになんかならないわ。私さえ居なければ彼は自由になれるのよ。‥‥‥私はお荷物よ。うんざりよ。きっといつか言われるのよ。お前のせいで俺の人生はめちゃめちゃになったんだぞって」

「くだらない!くだらない!あたしこんなくだらない女のために駆けずり回ったのね。好きにすればいいわ」ローザが席を立った。

「帰るわ」ローザが荷物をまとめて店を出ようとした。うさおがそれを引き止めるとローザは何を思ったのかくるりとホウドンジャの席へ歩き出し、げんこつでテーブルをドンと思い切り叩いた。大きな音がして、みんな飛び上がるほど驚いた。

「まだわかんないの!馬鹿女!いつまでも成長しないのね。困ったことがあるといつも逃げる。あんたの代わりに何匹兎が死んだと思ってんのよ!あの金髪男もそのひとり。あんたの兄ちゃんは死んだの!苦しんで苦しんで死んで行ったのよ!適当に一匹兎こさえてやり過ごして済む問題じゃないのよ!兄ちゃんは死んだの!あいつは偽物!」次第にローザの興奮は収まらなくなった。ローザはうなだれたホウドンジャの胸ぐらを掴んで椅子から引きずり降ろした。

「ローザ!ローザ!またケージに入れられたいのか」ジョージは言った。僕は体が震えた。うさおを見る。うさおは何か一生懸命に考えている。

「僕は兎じゃないよ。人間だ」パトリックがいきり立つローザの肩を抱いた。ローザはパトリックを乱暴に振り切った。

「美和は沈みかけた舟だ」うさおが言った。

「きっとローザのスイッチングで記憶が流入したんだ。だとすれば迫田光治は見込みがある。ローザ。落ち着いて。もうドンジャを責めるな。大切なのは子どもをどうするかでも結婚するかどうかでもないよ。ドンジャ。君はローザに助けてもらったことを思い出す時が来たんだよ。‥‥‥大丈夫。僕たちはみんな君の仲間だ。いいかい、今君は生きている。そのことをよく考えるんだ」うさおはひとことひとこと諭すようにホウドンジャと、それからローザにも話し始めた。

「‥‥‥生きているって、‥‥‥生きているって、素晴らしいじゃありませんか!どうか命を粗末にしないでください!」僕は涙がこぼれるのを止められなかった。どうして泣いてしまったのかわからなかった。ローザが僕を見た。

「あんた、面倒くさいリスね」ローザは毒づいたがその表情は温かだった。

ホウドンジャはシャツの襟を正し、ローザを一瞥するとノートパソコンに向かって座り直し、何やらキーボードをパチパチやりはじめた。

ふと見るとエルは失神している。

「ルイゼッタを出そう」うさおが言った。

(うん)

フライデーが笑顔で応える。

ルイゼッタ?

なんのことだ?

ローザもジョージも頷いている。

「言っとくけど僕は兎じゃない」パトリックがもう一度繰り返した。