小説 丘の上から 冬の章 4

遠くでピアノがなっている。リズミカル。登ったり降りたりするメロディ。今何番だ?わからない。美しく透明な響き。パトリックがエルと連れ立って丘を降りてゆく。僕はパトリックのコートの右ポケットに体をすっぽりとうずめ、一生懸命にピアノの音に耳を澄ませた。

エルはうさおのピアノが好きなのだそうだ。しかしエルは今日はなかなか泣き止まなかった。

うさおが朝今日は店を閉めようと言い、パトリックを呼んだ。ホウドンジヤは来ていない。ローザも来ないだろうとうさおは言った。うさおはエルの背中を優しく撫でた。パトリックが来た。エルはパトリックの顔を見て益々泣きじゃくった。

パトリックはエルを海岸へ連れて行くと言った。

フライデーは行かないと言う。2人きりの方がいいだろうと僕も思った。ところがパトリックは僕について来ないかと言った。僕はうさおを見た。うさおは無表情のままカウンターの奥の扉を開けて行ってしまった。そうして暫くしてピアノが聴こえ始めた。

「辛いんだ」フライデーが首を横に振る。

「辛いとピアノを弾くの?」パトリックが尋ねた。

「うさおはバッハの平均律を弾くの」エルが言った。「5番、10番、4番、12番」

「それから6番、2番、7番、8番、1番、9番」フライデーが言った。

「3番と11番はぜったい弾かないわ」

「そして終わりにもう一度5番を弾く」

「すごく速くびっくりするくらい速く」

海岸まではかなりあるという。エルは何も言わなかったがパトリックは時々空がどうとか雲がどうとかエルに話しかけていた。エルはそのたび笑ったり不意に泣き始めたりした。こんな弱々しい彼女を見るのは初めてだった。僕はずっと考えていた。

美和が入院したと聞いたのは昨日の夜のことだ。ルイゼッタは失敗したとフライデーが言った。うさおは失敗ではないと言い、ジョージも想定内だと頷いた。エルは泣き崩れた。

入院したのは外科だった。美和は包丁で自分の下腹を刺したのだ。迫田光治を電話で夜の公園に呼び出したあと彼の目の前で服の上から刺した。きずは浅く、また処置が早く命に別状はなかったがお腹の子がどうなってしまったのか、検査をすることがまだ出来ない。

朝なかなか起きて来ないエルを見に行くとエルは布団を被って泣いていた。僕を見てエルは起き上がり、サロンを持ってお店に降りてきた。泣き腫らした目の周りが赤い。

僕たちは歩き続けた。海岸はまだ見えない。

エルには見えているのだろう。美和の心の景色が。

冷たい風が丘を渡る。ザクザクと芝生を歩く足音がする。

パトリックはコートの襟を立て、僕は耳を澄ませている。ピアノの音は徐々に遠くなってゆく。もう風音と足音以外は何も聴こえない。

僕は静かに目を閉じた。