小説 丘の上から 冬の章 5

水平線はもうずっと前方に見えていた。上空に鉛色の雲が掛かっている。

僕たちは海に着いた。

僕はパトリックのコートのポケットから顔を出して見た。強い風にあおられて波頭が白く泡立って荒々しい。砂浜は広々としていた。不規則に形無く立ち上がる水の壁はあるところで落下してそのあとは不釣り合いなほど素直におとなしくなり、白い砂浜にその裾野を広げる。しばらくその繰り返しを見ているとパトリックがもう帰ろうと言った。エルはもう泣いてはいなかった。さっきからずっと自分で自分の両腕を抱きしめていた。

僕はずっとパトリックのコートのポケットの中にいた。とにかく寒かった。

浜近くの岸壁の上にパトリックの青いコテージは建っていた。フライデーから時々聞いていたし、さっきから青い小屋は見えていた。遠くからはわからなかったけれど小屋の真下に手作りの階段があった。満潮の時は水没してしまうらしい。今日の満潮は夕方4時だ。パトリックが言った。

慎重に一段一段、確かめるようにエルは登った。

小屋の中は暖かだった。一日中オイルヒーターが付けっ放しになっているとパトリックが言った。エルは窓の下のヒーターを珍しそうに見ている。僕もポケットから飛び出し、食卓の上を散策した。

「弾いてあげようか?」

エルが壁に掛けられた小さな丸いギターのような楽器を見ているとパトリックがそう言った。

「うん。でもあたしお腹空いちゃった」

「何か作るよ」

「作れるの?」

「何が食べたい?ピザ、グラタン、ピラフ‥‥」

「やだ冷凍?あたし作るわ。このパン貸して」

エルは食卓の食べかけのバケットを薄切りにして冷蔵庫の中から紙パックのカフェ・オ・レを取り出しバケットを浸した。それをフライパンで焼いて皿に並べ、砕いたアーモンドを散らし、甘そうなクリームを垂らす。

「あたし本当はタイムもローズマリーも嫌いなの」

ルピシアTOKIO、わりといい香りだよ。君はヴィーガンなんだと思ってたよ」

「違うわ、誰がそんなこと言ったの?あたしクリームも卵も大好きよ」

僕はアーモンドを齧る。

食べ終わり、パトリックは壁の丸ギターを抱えてシャカシャカと鳴らし始める。エルがふと窓の外に動くものを見た。雪だった。

「ねぇ」窓の外を見たままでエルが尋ねた。「あたしたちって」パトリックはうつむいて丸ギターをじゃらんと鳴らす。「嘘なのかな」

気が狂いそう、パトリックが丸ギターを弾きながら唄い始める。なんだか明るい曲だ。

「やだ、やめてよ、それ、ブルーハーツでしょ」

エルが笑った。

「あたし泣いたのはじめてよ、‥‥やだ、中森明菜はやめてよ」パトリックがまた何か唄い出したのでエルは怒った。

「ずっとね、ずっと今まで、何があっても泣かないことがあたしの役目だった。夕べ美和があんなことになってさ、気がついたらあたし泣いてた。ううん、悲しいとかじゃない。辛いとか、苦しいとか、あたしそういう時には泣かないの。そんな時はいつだってあたしは美和をぶち叩くの。まあ象徴的な意味でよ。そうよ。

「うん、ルイゼッタ頑張った。仕方ないわ。ああするしかなかったのよ、あれが精一杯。‥‥ルイゼッタとはね、美和が9歳、ハクスが14歳の時からずっと一緒よ。白くて可愛い兎。外の兎小屋の中でいつも横穴を掘ってた。

「あたし?あたしはハクスが逃げた夜生まれたの。あの夜美和も一緒に行くってきかなかった。あたし言ったわ、ルイゼッタの餌やりはどうするの?って。

「ハクスは美和のたったひとりのお兄ちゃんだったけど兄ちゃんには兄ちゃんの事情があったのね、きっとね。ねぇあなたわからない?教えてよ、なんでハクスは美和を置いて施設から逃げ出したのか」

僕はパトリックを見た。パトリックはエルを見た。

僕の右手を知りませんか、行方不明になりました

また歌だった。その歌は悲しげなメロディだった。パトリックは歌い上げるのだ。右手を無くしたという男の歌を。僕は今度はエルを見た。

「リスにはわからないと思うからさ、説明してあげる。あたしたち人間は誰だってこの手を誰かにキュって握って欲しいの。キュってね」

「ハクスは出所した父親に会いに行ったんだよ」

「出所ってなんですか?」僕はパトリックの丸ギターに飛び乗った。

「さあね、博打か何か。チンピラさ。どちらにしても子どもを捨てた大人さ。ろくなもんじゃない」

「それは違うわ」エルは立ち上がり窓硝子に両手を翳した。

「忘れないのものよ、人間は。何十年たっても、何処へ移り住んでも。温かい眼差しや手のぬくもり。ハクスはまだ幸せよ。キュって、抱きしめてもらったことを覚えていたんだから、抱きしめてもらっただけ幸せよ‥‥」

パトリックがまた歌い始めた。LOVE。パトリックは歌い上げる。

ナット・キング・コールね。あなた上手いわねぇ」エルはそういうとシクシク泣き始めた。曲が終わり、エルは僕に泣くっていいものね、と笑った。

「リクエストはある?」パトリックが尋ねるとエルはモンキーズ「デイドリームビリーバー」と言った。

それは素敵な曲だった。丸ギターはこの曲が1番しっくりとくるように思えた。いつのまにか僕は体を左右に揺らして丸ギターの奏でるリズムに乗っていた。そうして時々エルの笑顔を確かめた。もう泣かないで、そう思ったのは僕がリスだからなのだろうか。

エルは僕に笑顔を返した。