ドヴォルザーク スラヴ舞曲 作品72の2

美容院の予約は午後三時だが午前中に家を出てバス停へと走る。じっさいは乗り遅れ。定刻に走り出したバスがわたしの前をゆっくりと行き過ぎる。運転手さんと目が合ったので走りながらブロックサインでペケをして乗せてよダメかなと眼ぢから念力を送る。プシュー、バスは止まった。次のバスは1時間後だ。助かった。ありがと〜!朗らかに朗らかに。

3月だというのに雪が舞っている。

駅で電車のチケットを買おうとして迷う。時刻表をチェック。街まで出てライ麦を買おうと早めに家を出たけれどやっぱり今日は美容院だけにしようかな。路線バスをヒッチハイクしたあの図太いわたしはいったい何処へ。疲れていた。街へ出る元気が無かった。

隣町までのチケットを買いそれを小銭入れにしまうとわたしは駅を離れ駅前の本屋に寄った。本屋はすごく久しぶりだ。新刊、雑誌をザッと眺め文庫の棚へ。作家別の文庫棚。新潮、角川、文春など入り混じった一見するとごちゃごちゃの棚だが作家の名前がアイウエオ順で並んでいて読みたい本が探しやすくわたしは結構好きである。小さな店舗の本屋によくある文庫棚だ。

ふと見ると司馬遼太郎街道をゆくシリーズが1から順に並んでいた。揃えているなんて。いまどき珍しい本屋だ。そして12で終わっている。暇に任せて1から手に取りぱらぱらとやる。6は沖縄だ。読み始めたら止まらなくなっていた。店内にはわたしの他に客は居なかった。ふとレジのお姉さんと目が合った。するとお姉さんがサッと目を伏せた。あのね、立ち読み禁止なんて今時の本屋は言わないんだからね〜。おおっとわたしの中の図太い人再び現る現る〜。レジのお姉さんは二十歳くらいか。やめろ〜お姉さんを睨むのは〜。脳内の誰かの声。

わたしは司馬遼太郎の沖縄の文庫を持ってレジへ行った。カバーいらない。それからさ、これ13はないの?ひょっとしてお店の何処かにしまってあるとか。

お姉さんはパソコンをパチパチ。ごさいます。少々お待ちください。だいぶ待った。お姉さん戻る。申し訳ありません。13は少し前に売れてしまいました。だがある。曰くたった今届いた荷物の何処かに入っているらしい。

あのさ、それ、13、買うわ。何分で出せる?

‥‥30分でしょうか‥‥。

小さな紙切れに名前と携帯番号を書いてお姉さんに渡した。わたしは荷物を解く時間を隣のパン屋のイートインで待つことにした。

イートインで珈琲を頼んだもののひとくちしか飲めない。ひと月前くらいから珈琲を飲むと具合が悪い。50ccくらいで気分が悪くなる。それなのに習慣でつい買ってしまうのだ。

鞄からブリア・サヴァラン「美味礼賛」を出す。どこからでも読めて、どこを読んでもいかにもけったいで面白くいつなんどきでも頭がリセットされる本である。出来ることならいちどブリア・サヴァランに会ってみたいと思うのだ。会ってどうするの。何語で話すの。

30分後本屋へ戻ったところ荷物の何処にも司馬遼太郎が見当たら無いのだとお姉さんはひとりあたふたしていた。なんだか悪いことをした。ごめんね。別に急いでないからさ。うん、入ったら教えてよ。わたしは微笑む。電話?何時でもいいよ。またね。手を振って別れた。

少し早いけど美容院で司馬遼太郎の沖縄を読むことに決めて電車で移動。

美容院のある駅はわたしのホームタウン。小学生の時、生まれて初めて電車に乗った。電話ボックスの公衆電話の上にポンと財布を置き忘れた駅だ。懐かしい。

ふらふらと歩く。ここには八百屋があった。今は無い。八百屋の親父はいつもお酒臭かった。川まで歩こうとして辻を右に折れるとそこにはイタリアンバルという看板があった。ランチの文字のしたには単品もありとある。わたしは重い扉を引いてバルに入ることにした。しょっぱいものが食べたかった。

客はひとりもいない。「2種類のソーセージのペペロンチーノ」を単品で頼むと2時半には出て行ってもらえるかとお店のおばさんが言った。どうやらランチタイムが終わるようだった。時間を見た。2時だった。わたしは頷いてコートを脱いだ。

お店の感じが良かったのだ。狭くて暗い店内には装飾がほとんど無くカウンターではオーナーシェフらしき男の人が客に挨拶もせずにうつむいて仕事をしていた。パンはバケットだった。これは食べれないと思うから包んで、とわたしが言うとほいよとおばさんは紙をくれた。

パスタは生パスタで名前は忘れたがなんとかという名前のショートパスタだった。ミラノのサラミとサルシッチャが細切れで結構沢山。コリアンダーの微塵切り。フレッシュパセリも微塵切り。チーズは控えめだ。

オリーブオイル要る?おばさんが言う。オイル付けたらきっとバケット食べられるよ。おばさんは根はいい人のようだ。わたしはその時はもうパスタの皿の底のオイルにバケットを付けて食べていた。美味しかった。千切ったバケットにソーセージを乗せたり、パスタを乗せたりしてわたしはぱくぱく食べる。おばさんはニコニコ眺めている。

食べ終わりわたしがお金を払うと今度は夜おいでよ、ここはワインを飲むお店なんだから、と親しげに言う。

ありがとう。わたしは微笑みを返す。

雪が降っていた。

ドヴォルザークのスラヴォニックダンスが脳内の遠く何処からか聴こえて来た。

美味しいは悲しい。わたしの美味しいはみんなみんな悲しいのだ。

わたしは会ったこともないフランスの裁判官の事をもう一度考えようとしたけれど上手く考えがまとまらないので諦めて、さっきのイタリアンバルで見た、ワインのボトルのずらりと並んだカウンターの景色をひたすら脳裏に焼き付けた。