柴田書店「イギリス料理のおいしいテクニック」

昨日は診察日だった。記憶のフレッシュなうちに書き記しておきたい。

とはいえ取り立てて重大な事件が起こったわけではない。いつも通りだ。

DIDは日常自分にまでも嘘をつく。その点で診察室はDIDの聖域だ。わたしは脳内に点在する思考と感情をあらためて認識する作業を毎度病院へと向かう道中始める。

不思議なものだ。主治医の口から転地療法という言葉が出ると途端見離されたような寂しさと心細さが沸き起こる。トリガーとなるものすべてを遠ざけることは非現実的だが期間を切って旅行に出るのは有効だという提案だった。

随分前からの約束で5月に北海道へ行くことが決まっている。嬉しい旅行だ。一週間道南の友人宅に滞在する。今回は長女と孫との3人旅だ。折角だから出来れば長万部〜小樽の山線に乗りたいのだけど。余市のニッカウイスキーへも行こうか。帰りのフライトは午後3時過ぎだ。最終日を札幌泊にして「北海道開拓の村」もちょっと覗くことに。せっせと宿を探す。

もう何年も前のことだが余市のニッカの工場のレストランでスコッチブロスというスープを食べた。確かランチは雲丹丼、鮭イクラ丼、ハンバーグ定食そしてスコッチブロス。それくらいしかメニューには無かった。函館〜新千歳を10日間で北上するという旅行中体調を悪くしたわたしは悩んだ挙句消去法でスコッチブロスを注文した。

スコッチブロスは不思議な食べ物だった。透明なブイヨン(はたしてブイヨンとブロードとフォンの違いは何?)にはタマネギ人参の他にセロリなどの香草も細かくして煮込んであり、初めに主張するのは丸麦のプチプチでその後に揮発性ラッカーを口にした時のように羊の匂いがスパークする。それを確かめ確かめ食べているとやがて全体が甘みとトロミで覆われてもう何か新しいという感じはまるで無くなった。

旅行から帰り、とにかくもう一度このスコッチブロスを食べたい一心であの手この手でレシピを探した。しかしスコッチブロスなるものはどの料理本にも載っていなかった。日本に住むイギリスの研究者の掲示板にことの次第を書き残したところ後日英文ではあったがレシピを返信してくれた。それはヴィクトリア朝時代のクラシックレシピの書き写しであった。

北海道からラム肉を取り寄せリーキはネギで代用。何度も作る。スコッチブロスの旅はなかなか終わらなかった。

「イギリス料理のおいしいテクニック」とはその時期に出会った。既に絶版になっており、図書館で全ページコピーを撮った。その後関東に移りふらりと入ったBOOKOFFで千円で売られていて速攻購入した。

この本が好きだ。料理はすべて技法別に列挙されている。出来上がりは単に良し悪しでは無く、シンプルなものから更なる複合体へとテクニック毎にその仕上がりの多様性を評価出来るように書かれてある。

例えばパンケーキテクニックというページには「貧乏人のパンケーキ」と「お金持ちのパンケーキ」などとある。コスパである。スコーンテクニックではミルクや油脂や全卵を順次加えていくスケールを載せていてリッチな配合にしたい時の分量がひと目で解るようになっている。

著者は長谷川恭子というイギリス在住の料理研究者でわたしはこの本を隈なく読んでは彼女の好きな味つけは一体どの辺りなのかを探るのだ。

研究者というものは素敵にけったいなものである。毎日触れているものの平均値を出さねばならぬ、数値化した現状報告をせねばならぬ。美味しいよでは済まないのだ。

あった。ポテトテクニックのページだ。「わたしは塩辛いのが美味しいので」。あったよ。

何を書いて居たんだっけ。そうだ。スコッチブロスだ。

丁度この本をBOOKOFFで見つけたころに知り合いが旅行から帰った。なんと彼女はスコットランド帰りであった。わたしは早速スコーンをたんと作り彼女の家を訪問した。我々はスコーンを貪りながらスコットランドの写真を延々見続けた。わたしはそののち幾度か彼女の家を訪ねた。スコーンを焼き、食べ、スコットランドの話をした。

彼女は何故スコットランドへ旅行したのかな。確かそういう話はしなかった。

彼女はアラスカンマラミュートという大型犬を一頭飼っていた。

どうしているかな。北海道の次は関東。久しぶり彼女に会いに関東へ行こうと思う。