木彫り熊紀行③〜雲八と磯子

どうも北海道から帰って以来体調がすぐれない。数日前娘たち婿たちと北海道土産のウイスキーや甘いものなどをわいわいやったがその日以来胃腸を悪くしている。余市のウイスキー工場で購入した限定品のシングルモルトを呑んだのだけどすぐに気分が悪くなってしまった。味は抜群だったよ。最初のひとくちはね。

悪いなら悪いで諦めてぽいっと胃腸薬を呑むのでかえって症状は収まって、それでもうずっとタイミングが合わず営業日に行くことの叶わなかったラーメン屋さんなんかに行ったりして。それでそれがとっても美味しかったりして。

それにしても何もやる気が起こらない。溜め息が出る。仕方ないので掃除もそこそこにソファでごろごろエゾヒグマの写真集をぱらぱら眺めている。北海道では春先に冬眠中の熊を子熊もろとも捕殺する「春グマ駆除」が昭和の時代まで行われていた。先週借りてきたヒグマ関連の書籍をザクザクと2冊ほど読んでいるが北海道や東北などではヒグマが家畜や人を襲うという熊被害がもちろん今も少なくはない。

徳川義親は1918年に八雲で最初の熊狩りをした。義親はその時の様子を後年書いているが原生林へ踏み入っても踏み入ってもなかなかに熊には出会えなかった。八雲町の南に落部という地名があるが義親がまる2年熊に出会えないのを気の毒に思った八雲の人々が連れてきたのはこの落部に住む辨開勇蔵という人だった。

べんかいという変わった名字。図書館で頂いて来たフリーペーパーの「マニアック落部」というコラムに年代も丁度同じ頃、落部に辨開タコジロウという偉人が居たとある。タコジロウ。別人か。

晴れ渡る5月の青い空。わたしはべんかいタコジロウさんとつぶやいてみる。きっと彼等は辨開ファミリー、ここでは辨開さんとひとまとめにお呼びすることに決めようではないか。パトリックが言う。まあそうだね。

その辨開さんはユーラップ川の上流、熊の冬眠している穴に義親を案内し、義親は冬眠から目覚め切らない一頭の熊をこの時銃で撃ったという。

アイヌの男の子たちはある年齢に達すると熊の冬眠する穴の場所をお父さんから教えてもらうのだという。その穴はその家の財産だ。父祖代々からの熊の穴である。多い人は数百もの穴を持つという。

彼等にはヒグマの肉や毛皮は暮らしの必需品だった。だから熊が絶滅しないように気を配り、けして乱獲はしなかった。

熊の胆のうはクマノイと呼ばれ薬として現在でも用いられている。クマノイは胆汁の流れを良くする。ちなみにわたしは肝内胆管障害を伴う難病を患っており3年程前埼玉に住んでいた時に都内の大学病院の内科でこのクマノイ(ウルソデキシコオール)の大量投与をしていたことがある。多分田辺製薬さんが合成した合成クマノイで天然モノではないと思う。うん。たぶん。うん。そうであって欲しい。

八雲町の木彫り熊資料館で撮った一枚の写真。1928年八雲農民美術研究会熊彫講習会。13人の男性がぐるりとテーブルを囲み片手にノミを持ちもう片方の手は白い木の塊。男たちは熊を彫っているのだ(よく見ると右並び中ほどに女性もひとりいる)。真ん中辺りで立っているのはこの日の講師役の十倉金之。もうひとり右側にも講師。伊藤政雄だ。

義親がスイス土産を持ち帰った翌年にはたったの一頭しか彫られなかった木彫り熊だったが、その翌年には数え切れない数の熊を函館と札幌に青年会は売りに行っている。講習会を開き、生き生きした作品アプローチを求めて義親は2頭の子熊を徳川農場事務所に放し飼いにした。雲八(オス)と磯子(メス)は2歳になるまで檻に入れられることもなかったようだ。

表情の愛らしさと擬人化という八雲の木彫り熊の特徴はここから始まったと言われている。青年会は木彫り熊を続々と作成していった。

しかし1941年第二次世界大戦による鉄供出令で雲八と磯子の檻の鉄材は供出、2頭は銃殺、研究会は解散した。磯子の産んだ子は東京の動物園へ里子に出されたというからこの次上野へ行った時にはリサーチしてみたい。

敗戦後、十倉金之は日本画の手法を木彫り熊に導入して菊型毛という彫り方を確立した。戦争中にもかかわらず彼を筆頭に非国民となじられながら熊を彫り続けた猛者が何人も、資料館にはその名と共に愛くるしいそれぞれのクマの子たちを硝子ケースの棚に連ねている。

次回はその話からこの続きを書いてみたい。