手紙を書きました

今週の月曜日のパンは2種類。ベーグルとリュスティック。真夏の酵母はやんちゃである。過発酵を避けるべく午前中から仕込みさくさく午後焼成した。

 今日は北海道の友人に手紙を書いた。

 拝啓。

 そして万年筆だ。

 薄手の外国の黄色いレポート用紙を便箋代りにしてこつこつ書き始める。このレポート用紙が二十歳の時から大好き。このあいだコストコで売っていたのを見て驚いた。ストックがあるにも関わらずもちろん買って帰るつもり一抱えしたところを三女に取り押さえられた。

 北海道滞在の折には世話になった、その後調子はどうだい。時候の挨拶と謝礼を述べたのちはダラダラととりとめもなく、もやもやと思いつくままに近況を綴る。

 夏は畑に草が生えるからさ、云々。

 まったく朝のラジオ体操てのはさ、等々。

 手書きの手紙。葉書きでなく便箋。なんとも楽しいひとときである。時間はたっぷりある。書き出したらもう止まらないよ。

 本論に入る前に便箋は既に6枚を超えていた。読み返す。悪くない。これこそがわたしの日常、日々の徒然だ。いんじゃない?

 さて、書きたいことはこれらのことであると本論に入ったところで突然頭が朦朧として来た。

 疲れた。

 時計を見る。

 なんともう正午であった。

 9時から書き始めたので約三時間。ペンを持つ手もこわばり、気がつけば肩もがちがちだった。

 要するにわたしは文字を書くのがとても遅いのだ。

 いつかどこかのお店のカウンターで商品の購入後何かの登録に住所氏名等を書いていた時だ。お店のお兄さんが言った。

 ○○さん、もしかして書道をされるんですか?

 達筆とかそういうことではない。一字一句文字を書く動作がいったい何事かレベルに仰々しい。

 手紙はもっと困る。文を書くのは大好物だが字を書くのが難しい。書くべき文脈と文面は既成のフォーマットとして前頭葉にするすると上がってくるというのにそれを紙に現してゆく作業が覚束ない。何かに追われるように、強く紙を押すような気持ちで文字を連ねてゆく。だから力が抜けない。

 それなのにどうしてこんなにも手紙書きが好きなのかな。

 手紙には時間差がある。郵送されてしばらくポストで待っている。そんな遠さが切なくてさ。

 もう何十年も前のことだがある日思い切って書き切った手紙を投函してすぐ書いたことを後悔し、荷物をまとめ電車に飛び乗り本人に会いに行ったことがある。読まないで欲しいの一念だった。郵便よりも速く、わたしは何百キロも離れたその人の住む町へ着き、駅からタクシーを飛ばした。

 住所だけを頼りに初めての町を歩いた。ここだ。この部屋だ。わたしはポストを覗く。わたしの出した分厚い手紙はまだ着いていなかった。わたしは玄関ポストにどうか手紙を読まないで捨てて欲しいと書いたメモを入れ、駅近くをふらふら、あれこれ悩んだ挙句再びタクシーに乗る。結局その日の午後、当人とやり合う羽目になった。

 彼は当惑していた。わたしも譲らない。会って話した方がいいと判断したと説明をした。

 今思えばあれはわたしが生まれて初めて、そして人生でたった一通だけの記念すべきラブレターだったのかもしれない。わたしは阿呆だな。その人とも今ではすっかり疎遠になっている。もうきっとおっさんになってるだろうなあ。

 さて、北海道の友人の住所は既に封筒に書いてある。本文よりも宛名を先に書くのがわたしの流儀だ。悪いが続きは明日にするなどと全く謎めいた締めくくり文句でわたしは今日は手紙を閉じた。

 かしこ。

 切手代92円。10円の超過だ。

 手紙って楽しいな。

 明日また書こうっと。

 いきなり本論に入ることをまず詫びる。

最初の一行はもう決まってんだよね。