連載小説 小熊リーグ①

13時丁度の米原行きに乗り込んですぐ、寝室にイヤホンを忘れて来たことに気付いた。ホームに戻りキオスクで買おうかと考えたが果たしてキオスクにイヤホンが売っているかどうかわからない。米原行きは空いていた。ウオークマンを諦め、僕はいつものシートにいつものように進行方向に向かって深く腰掛けると長い溜息をついた。

目を閉じて集中する。

居るぞ。こっちか。いや左。見てるぞ。

怖いか。いや怖くはない。怖くはないが酷く落ち着かないのだ。電車が駅に着くたびに次第に座席が詰まっていった。隣にサラリーマン風の男性が座る。僕は読みかけの文庫本を鞄の中に探したがいくら探しても文庫本は見当たらなかった。

僕は再び目を閉じた。間違いない。僕の脳内に1匹のクマが居た。クマは今日で3日、僕に何かを一生懸命に訴えていた。丁度3日前、彼女から病院に電話があった。

電話でか。まさか電話で彼女の脳内から僕の脳内へとクマが移るなんてことが。

「お忙しいところすみません。とっても調子が悪くて電話掛けちゃいました」

3日前の彼女の電話を再生する。

「なんか死にたくなっちゃって」

電話の彼女はいつもより快活だった。DID患者は鬱よりも躁の時の方が死に易い。ひときわ歯切れ良く、あたしもうダメなんですを繰り返す彼女の澄んだ高い声に僕は一瞬で鳥肌立った。そしてうろ覚えの記憶を頼りに慌ただしく今日の午後診を取り決めたのだ。

病院に着くと待ち合いに彼女の姿が見えた。紺色の化繊のワンピースに白い薄いカーディガンを羽織っている。茶色い髪。

診察の前は必ず弱腰になる。落ち着け。まず話を聞く。薬を処方する。それで診察は終了だ。クマはどうする。一旦保留だ。僕は精神科医だ。彼女の主治医だ。僕の脳がどうであろうと彼女には一切関係の無いことだ。

ところが彼女が診察室に入るなり語った話は僕を酷く動揺させた。

クマが消えた。

彼女は自分の脳内のクマが3日前に消えてしまったと打ち明けた。

「消えた?」

「はい」

「いや、あの、でもさ、どうして消えたっていうことがわかるの?」

「だって脳の中をどこを探してもいないんです」

僕は咄嗟に脳内にクマを探した。この3日間クマは時々見えなくなることがあって、正直そんな時には僕は酷く不安になったものだ。

そしてあろうことかクマはいま僕の脳内からも姿を消していた。僕は焦った。目を閉じて集中、必死で脳内を探索する。しかしクマはさっきまであったその気配すら失われていた。

今は何も言うまいと僕は頷いた。だってこんなこと到底うまく説明出来っこないし。彼女は混乱するに決まっている。だいたい主治医の僕が脳の病気かもしれないなんてクライアントはいったいどうしたらいい。

「‥‥寂しいよね」僕は自分の口からそんな言葉が出たのでちょっと驚いた。

彼女は黙って何度も頷いた。

「でも確か、君のクマはぬいぐるみ、だよね」

彼女は顔を上げる。

「だからさ、ほら、また別のクマのぬいぐるみを作ればいいじゃん」

その時だ。僕の脳内で声がした。それは低いドスの効いた男の声だった。男が何を言っているのか、すぐにはわからなかった。何しろ僕は脳内で自分以外の人間の声を聞くのはそれが初めてのことだったのだ。

「え?」思わず僕はそんな声を発していた。

彼女は何?という顔をした。

次の瞬間だ。僕の脳内で男が言った。

『馬鹿だな。俺じゃなきゃダメなんだよ』

「は?」僕は再び顔を歪める。

声の主がクマだとわかるまで少し時間が掛かったが、僕は脳内のクマと目の前の彼女を代わる代わる眺めていたらすごく自然に言葉が口から出た。

「ねぇ、あのさ、動物園に行くのはどう?」

ふと見ると彼女が眉間に皺を寄せながら僕を見ている。

「‥‥動物園が有効だったという事例は少なくないからね。‥‥つまり環境を整える。そして自己開示ね。子ども人格の中には動物園でしか姿を現さない、そんな子もいたりするからね。うん、そうなんだな、うん」

僕は知らぬ間に脇汗をびっしょりかいていた。深呼吸。そっと目を閉じる。いつの間にかクマはこっちを見ていた。

ん?

笑ってる?

クマって笑うの?

「先生、大丈夫ですか?」

目を開けると彼女が心配そうな顔で僕を見ている。

僕は泣きそうだった。

休暇が来て、僕は下見を兼ねてまずはひとり動物園を訪ねた(つづく)