連載小説 小熊リーグ②

光盛医師は親父の医局時代の同級生だ。最近大学病院から引き抜かれて親父の経営するクリニックの勤務医になった。

精神科医になり、精神保健指定医の認定を受ける時に光盛医師には本当にお世話になった。

今日は光盛医師に会う。僕は実家のクリニックから電車で1時間ほど離れた町で独り暮らしをしていた。昼過ぎ光盛医師と、僕のマンションの近くのカフェで会うことになっている。

夜勤明け。午前中いっぱい眠れるかと思っていたがなかなか寝付けない。諦めて起きて過ごすことに決めたら今度はものすごく腹が減ったので何か食べようと野菜室をガサゴソ。

先月僕は見合いをした。

彼女は光盛家の遠縁で、関東で皮膚科の勤務医をしている28歳。見合いは僕が断られた格好で終わった。即答だった。当たり前だ。

光盛医師に言わせれば、僕には男としてのセックスアピールというものがまるで無い。

自分でもわかっている。

しかし言わせてもらえば皮膚科の勤務医の女にも惹かれるものなど何一つない。コラーゲンやプラセンタの臨床と研究。

野菜室を覗くとビニール袋に入った白っぽい餅のようなものが五つあった。低温発酵させているパン生地だった。生地は何種類かを常に発酵させてある。

固めで水分の少ない、積み木のような四角い生地を僕は取り出してスケッパーでひとつひとつ立方体に切り分ける。天板にペーパーを敷き余熱したオーブンで焼成。スコーンを焼く。

スコーンが焼けるまでのあいだにちゃちゃっとデスクを片付ける。山積みの本。パトナムの「解離」「多重人格障害」。それからとりあえずAmazonで購入した熊の生態についての専門書が2冊。

片付けられ、サッパリとしたデスクで焼きたてのスコーンにサワークリームと蜂蜜を垂らしてパクパク食べながらノートを読んだ。

彼女の最新のマッピングだ。この時はクマなどまだ脳のどこにも居なかった。そしてクマ関連のエピソードは彼女のノートのどこにも無い。僕は立ち上がり冷蔵庫から冷たいウィルキンソンを取り出してゴクゴクと飲んだ。

いつもそうだ。僕は食べ物と飲み物を交互に上手く摂れない。パサパサのスコーンが限界に来てはじめてキレキレのウィルキンソンを飲む。DIDの治療もよく似ていた。ドラマチック。ギリギリの処でたいていは扉が開く。それは彼女でもない僕でもない、過去からの第三者がやって来ては道を示すことが多い。

僕はなんなんだろう。只の傍観者に過ぎないのだろうか。

デスクには彼女の書いたノートが十冊ほど。ここ数週間でもう暗記するほど読んだノートだ。僕はスコーンが喉で詰まって苦しくてギリギリな感じをウィルキンソンで流し込みつつもう一度ノートを始めからパラパラとやった。

自転車でカフェに行くと光盛医師は既に来ていてマスターと談笑していた。マスターにボックス席に通してもらい僕も光盛医師もランチを注文した。

「動物園はまずいだろう」光盛医師は言う。「それじゃリミットセッティングが成り立たない」

「クマを戻したかったんです。クマが彼女の脳に帰ってくれればいいと思ったんですよ」

「でもさ、彼女はなんで当日来なかったの?ひょっとして君嫌われてる?」

「彼女はいつもこうなんですよ。一旦はドタキャンして、こう、僕の出方を見るんです。僕が怒らないかどうか、疲れていて諦めてしまうんじゃないか。彼女はそんな不安を常に抱いている」

「うーん」光盛医師は唸った。「君はそれでやっていけるの?アドバンテージは出来るだけ持っていた方がいい。基本女性は引っ張ってくれる男に魅力を感じるからね」

「確かに。僕はそういう部分全くないですよね」僕は笑わない。

光盛医師の私服はいつも決め決めだった。夏ウールの紺のジャケットに白いパンツ。50代前半のダンディなセレブリティだ。それに引き換え僕はユニクロのTシャツに沖縄で買ったビーチサンダルだ。

「それでどうする?君が今1番困ってることはどんなことなの?スーパービジョンが必要なら早い方がいい。バイザーは僕でいいの?それともお父ちゃんに話すかい」

ランチが運ばれて来た。僕はパニーニに野菜サラダとスープ。光盛医師は赤い色をした具沢山のスープとパンだ。

「これなに?」僕はマスターに尋ねた。

「トリッパ」マスターは昼時で忙しいのかそれだけ言うとカウンターへ戻って行った。

「クマです。とりあえずクマをなんとかしないと」

「そのことなんだが、君自身のトラウマにクマ関係の何かがあるんじゃないのかな。そのクマ、じつは君のクマだったりしない?」

「違いますよ!僕はクマなんか好きでも嫌いでもないんです!‥‥光盛さん、疑ってるんですね。‥‥僕が発病したんじゃないかって」

「まあまあ落ち着いてよ」

光盛医師は僕をじっと見てニヤリと笑った。

「聞かせてよ。そのクマのことをさ。いったいどんなクマなんだい?」

僕は目を閉じて脳内を覗く。居た。

「音楽‥‥好きなんですよ」

「ほう。何がすきなの?」

「奴が1番好きな曲はエレファントカシマシ『風に吹かれて』です。まあエレカシとか、光盛さん知らないと思いますけど」

僕はもう一度目を閉じた。遠くの方で奴がうなずいていた。そうだそうだと頷いているのが見えていた。(つづく)