連載小説 小熊リーグ③

光盛医師を除いて、僕は脳内にクマが棲むことを誰にも言わないでいようと決めた。精神科医として平たく言ってこれは幻覚と幻聴という症状だ。光盛医師も同意見だった。

 

「君がたとえ何か脳の病気を発症していたとしてもそんなにがっくりしてはいけない。僕の観察では今のところ君の容態はそれほど悪くはない。直接会ったことは無いけれどDIDを患いながら弁護士や医者や政治家として第一線で活躍している人は実は何人もいる」

 

光盛医師はそういうとトリッパをばくばくと食べた。僕もパニーニを頬張る。パニーニはとても美味しかった。表面をサクッと焼いたチャパタに甘いトマト味の柔らかいズッキーニと茄子が挟まっていた。

 

「ところでそのクマの名前はなんてえの?」

 

「ウィルです」僕はだいぶ悩んでから名前を光盛医師に伝えた。

 

「ウィル。確かウィルって君が飼ってる犬の名前だよね。なんだっけ、ほら、毛がモジャモジャの」

 

マルチーズです。それからウィルは半年前に死にました」

 

「そうか、そうだったのか。しばらくはその頭ん中のクマをフォローすることだ。また何かあれば電話で話そう」光盛医師が言った。僕はお礼を言った。僕と光盛医師はカフェを出た。会計は光盛医師が僕の分も払ってくれた。

 

夏。

 

自転車をマンションの玄関まで担ぎ入れ、僕はシャワーを浴びた。ウィルキンソンを一気飲みして、留守中も付けっ放しのエアコンで冷えきったシーツに潜り込むと墜ちるように眠った。

 

真夜中雨音で目覚めた。脳内を探索する。クマを探すのがすっかり習慣になった。僕の頭の中にはちょっとした広さの熱帯雨林があり、あおあおとしたジャングルにクマは棲んでいる。樹々が生茂り、そこにはちょっとした暗がりがある。目を閉じる。丸くなって寝息をたてているクマの姿が見える。どうやらウィルは眠っているようだった。

 

僕は犬のウィルのことを思い出していた。

 

犬のウィルは母方の祖母が知り合いのブリーダーに分けて貰ったという血統書付きのマルチーズだった。

 

僕はウィルを好きだった。一緒に海や川へ行ったし、何度も一緒に誕生日とクリスマスを祝った。気だての良い犬だった。遊び好きな可愛い犬だった。

 

一般的なマルチーズは白い毛を長く伸ばして全身をすっぽりと覆っているが僕はあのマルチーズスタイルがどうしても嫌だった。だから放って置くとどんどん伸びるウィルの白い毛を、僕は工作ハサミで丁寧にカットした。

 

ウィルはいろんなところでごろごろと寝転ぶのが好きだった。だから彼の体はいつも薄汚れていた。ウィルを見てこれが血統書付きのマルチーズだと気づく人はおそらくひとりも居なかっただろう。

 

去年の秋、老衰で亡くなるまでウィルと僕は18年間を一緒に過ごした。

 

一緒に過ごしたと言っても僕が学生時代の一時期は離れて過ごした。医者となり、幾つかの病院勤務を経て今の単科精神科病院に務めることが決まり僕はマンションを買った。そうして実家からウィルをこのマンションに連れて来たのだ。

 

ペットロスか。

 

ペットロスをきっかけに統合失調症を発症か。

 

僕は彼女をことを考えた。DIDでここ数ヶ月は周期的に希死念慮に悩まされている。あの日僕を電話で呼び出した。

 

そして僕は少し前の診察の時にウィルという名を彼女の口から聞いて知っていた。彼女のクマのウィルはボロボロのぬいぐるみ。今はもう失われている。ウィルは彼女の子ども時代の重要な存在。イマジナリーフレンドだったと。

 

いつの間にか睡魔が来て僕は再び眠った。

 

そうして目覚めるまではもうクマのことも犬のことも考えることはしなかった(つづく)