連載小説 小熊リーグ④

気が付けば次の一ヶ月間、彼女からのSOSの電話はなく、8月の最終週の金曜日の午後に診察日がやって来た。

僕は彼女の診察にはいつも何も考えずに臨んだ。

心を無にするのだ。

他の精神科医のことは知らない。

これは僕にはむつかしいことだ。患者は皆快復を目指し変わって行かねばならない。病院に来た、先生に会った、今日診察に来て良かったと何がしかの変化を持ち帰って貰わなけれはならない。主治医にはそんなプレッシャーがある。

だから主治医はこの疾病にはこの対応という大まかなマニュアルを必ず当てはめる。

個性を考慮する。若い女性はこう、年配ならばこう。

さらにはライフステージという切り口もある。学生か。独身か既婚か。子持ちであれば子どもの年齢、家庭内の雰囲気。趣味はあるか。生活サイクルは夜型か等々を分析し類型、専門書の統計を参考に斬り進めばいい。

しかし彼女はDIDだ。

DIDを統合失調症として扱う精神科医は少なくない。これは一言で言うならDIDはカウンセリング無効という考え方だ。これはあながち間違いではないだろう。下手に脳内を掻き回しては寝た子を起こすことになる。

家族はこう言う。どうしてくれますか。先生に診てもらうようになって益々悪くなりました。

DIDが自発的に診察を希望することはとても少ない。多くのDIDは家族に連れられてここへ来る。稀に刑事事件を起こして、というルートで精神科へと辿り着くケースもある。

初発症状をパーソナリティ障害と同定することも多い。どちらも他者からの慰めと自己開示に繋がる対話を心の深い処で強く拒絶している。ひねくれ物という言葉があるが人は一定の時間をかけ、捻って捻って捻くれ放題捻くれてしまうとむしろ無害な人格者のような雰囲気に落ち着くのかもしれない。彼ら彼女らはもはや何も発しない。時間が止まり一分の隙もなく漆黒の虚無をまとっている。

DIDを含め、パーソナリティ障害の初期治療はとにかく患者の言葉がこぼれるのを待つしかなかった。取り付きやすい取り掛かり口は要注意、トラップであることが多い。精神科医は何度も何度も試されるのだ。アドバンテージを取り相応なジャブを繰り出すが速いか奇妙に有効なパンチの一撃に戸惑わされる。

彼女は僕には初めてのDID患者ではなかった。これまでの何人かのDID患者たちは僕を見限って去っていった。

転院。

自殺。

彼女と出会って丁度一年だ。

先月末彼女はジャブを繰り出した。彼女は僕に対峙し始めた。

それがクマだった。

クマ。

僕は専門書を調べたがもちろん専門書の何処にもDIDはクマを出すという記述はない。

なんでも来いだ。

そうさ、俺はクマを抱えているんだぜ。目を閉じて深呼吸。僕はこうして診察前は必ず弱腰になった。

それが僕のルーティンだ。(つづく)