連載小説 小熊リーグ⑧

僕の病室には誰一人面会に訪れなかったが、特別差額病棟には衣類のクリーニングと掃除のサービスがあった。

朝食後、タオルと下着、パジャマを取りに来てくれる男性。薬を持って来てくれる男性の看護師。午後3時、男性がひとり15分ほどの室内清掃に来て帰り、夕食後、また別の男性が乾燥機でふんわりとさせた僕の衣類を返しに来てくれ、消灯のころには別の男性の看護師が眠る前の薬を持って来た。

彼らは皆同じ白衣を着て同じような体型をしていた。彼らは若くもなく年寄りでもない。私語は無く笑顔を見せることも無い。僕は呂律の回らない妙な日本語では話しかける気にもなれなかったから、キビキビと働く白衣男たちとはアイコンタクトを取ることすらなかった。

診察は週に2度。僕は毎回男性の看護師の後について行く。迷路のようなリノリウムの廊下を右に左に折れて進む。その廊下は壁も床も青み掛かったグレーの色調で、よく見ると床面のグレーは壁面のグレーよりも深く重々しい色合いだった。一方壁面のグレーは床面のグレーよりも幾分明るくて透明感があったがそれらは相対的にそうなのであって単独の色合いとして美しいかどうかはわからなかった。そんな不思議な色合いの廊下だった。

突き当たりの幅広の自動ドアは金属で出来ていて、その奥の、少し小さめの自動ドアに向けて廊下全体は次第に光沢を増してゆく。

それは輝かしき廊下なのだった。

その先は看護師は付いては来ない。

診察室ではグレーの王国の白衣の王様が胡散臭い笑顔で僕に会釈した。グレーばかりを見続けていた僕は主治医の白衣を眩しく感じた。

そうか、そんな効果を期待して作られたんだな。僕とウィルは顔を見合わせて頷く。

主治医は終始笑顔で退屈してないかとか困ったことはないかとか質問をしたがその度にウィルが僕の代わりに毒づいた。

ひと月が経ち、僕が朝食後の惰眠を貪っていると光盛医師が面会に現れた。彼は白いワイシャツにノーネクタイだったので僕はそれが光盛医師だとわかるまでに少し時間が掛かった。よく見るとこの部屋を訪れる白衣集団よりもすこしだけ胸板が薄く頭髪は鬢の辺りに乱れがある。

「少し太った?」光盛医師はニコニコしていた。

「そうだね、寝てばかりだからさ」

「君の主治医の白川先生は僕の医局時代の同期でね」

ということは父の同期でもあるということだ。僕はぼんやりする頭で考える。

「君の状態が落ち着いたと連絡をもらったのさ。君は白川先生ともうだいぶ打ち解けて話すらしいな」

僕は昨日の診察でのウィルの言葉を思い返した。『ストレスでそのうちツルっと禿げますぜ』とか『味噌汁のジャガイモが生煮えだったよおっさん』とか確かそんなことだ。打ち解けてる?なんだかよくわからない。

「外泊許可が出てるんだがどうする?」

「帰るところなんてありません」僕は打ち返すように答えた。

デイケアも大丈夫だと白川先生は言ってたが」

デイケア?」

光盛医師がくれたパンフレットのような紙を僕は見た。月曜から金曜、曜日毎にカリキュラムがある。要予約とあった。

「ほらよ、スコーン、スタバのだ。それからウヰルキンソン」光盛医師はウヰルキンソンをケースで持って来ていた。「冷蔵庫は?あるんだろ?」

僕はパンフレットから目を離して冷蔵庫を指差した。

光盛医師がガチャガチャと大きな音を立ててウヰルキンソンを片付けている間も僕はデイケアの紙をぼんやり見ていた。

「寝てばかりじゃ退屈だろ?ちょっと顔出してみたらいい」

光盛医師は冷えてないけど、と言ってウヰルキンソンを一本差し出した。僕は生ぬるいウヰルキンソンは飲まない。丁寧に断り毛布を被ってベッドに横になった。そしてデイケアへいってみるよと光盛医師に伝えた。