連載小説 小熊リーグ⑨

数日後のことだった。朝食後、僕のケースワーカーだという男が部屋にやって来た。

「仕事が遅れてしまい申し訳ありません。突然の入院で何かと心配なこともお有りかと思います。何でも尋ねてください。出来る範囲でお手伝いします」

新海と名乗るその男は少し変わった男だった。くるくるウェイブのおかっぱ頭、黒縁眼鏡、濃い目鼻立ち、ブルーのワイシャツを着ていた。彼はベッドサイドの丸椅子に腰掛けた。何かファイルのようなものを抱えている。

「すこし僕の自己紹介をします。‥‥僕は実は統合失調症を患っていまして、まあ今はほぼ寛解しているんですが、出身は北海道ですが東京で働いていました。年齢は今年で47歳になります。発病するまではカメラマンをしていました。独身です。結婚は1度もしていません。‥‥ええと、デイケアへはまだ行かれてませんね」

なんだって?統合失調症ケースワーカーをしている?僕は驚いた。

「まあ無理しない方がいいかと。デイケアはあれでなかなか疲れます。外来の人も来ていますからね。時々すごくハイテンションの人なんかもいますし、滅多にありませんけど可愛い女の子が居たりするとめっちゃドキドキしますしね、ははは」

僕は笑わなかった。

僕はその新海というケースワーカーと時々部屋で短い話をするようになった。彼はなかなか出来るケースワーカーのようであった。単刀直入に僕に言いにくいことを言ってきた。

「先生はこれまで精神科医をして来られたということで、こんどは逆に患者になっちゃったってことで、‥‥これはなかなか気持ちの整理がつきませんよねぇ」

「そうですか、お父様も精神科医をしておられるんですね。‥‥やっぱりあれですか?ご親戚は医者が多いですか?」

「まあ、精神科医の毎日ってハードですよね。それにドクターたちって実はあんまり趣味らしいもの持ってないんじゃないかな。それで?先生は休みの日には何して遊んでたの?」

物怖じせずに話すこの新海というケースワーカーに僕は好感を持った。新海氏は週に1度部屋へやって来た。そしてそれ以外でも病棟へ出勤している日であればお願いすれば部屋を必ず覗いてくれた。

ある日、僕は新海氏に促されて入院して初めて病棟から外へ出た。小高い丘の上に病院は建っている。建物の東側には庭園があり、木陰にはベンチがあり、そのベンチに腰掛けると目の前には雄大な景色が広がる。そこはまるで雲海が見えそうな高所で見渡す限りずっと遠くまで山々の稜線が重なり続いているのが見える。

僕は新海氏とふたりでぼんやりそのベンチに座り、何を話すでもなく小一時間ほど黙って過ごすこともあった。

「いま熊はどんな感じですか?」

新海氏が僕に尋ねた。

「ひょっとして熊、薬で消えちゃいましたか?」

「いや消えてないよ。居るよ」

「熊ね〜興味深いですね〜。そうか〜熊か」

そんな時僕は咄嗟に目を閉じてウィルを見た。ウィルは新海氏をとても気に入っている様子だった。ウィルは木登りが好きなのだが、そんな日はするすると木から降りてきて、たちまち新海氏の隣にちんまりと腰掛けた。もちろんウィルの姿は僕にしか見えないのだけど。

「新海さん、ウィル来てますよ、ここに」

僕がそう言うと新海氏は右隣の空間を眺め、真剣な顔つきでベンチを撫でながら言った。

「この辺?」

僕はドキドキしながら頷く。するとウィルは毛むくじゃらの手をお腹で交差させて、いたずらっぽい目をして僕と新海氏とを変わるがわる見た。