徳川林政史研究所「森林の江戸学」「森林の江戸学Ⅱ」はとてつも無い本である。江戸学の研究者は多く参考文献の総量は膨大。ドイツ林学体系を論じている文献とはまた違った意味で底なしに興味が尽きない。これは大変なことになって来た。
わたしには森林学の正誤を判断せんと国益の前線で経済を司る偉い人たちと肩を並べるつもりはなく、知りたいことはたったひとつだ。
明治になり森が衰退して熊たちはひどく困った。困った熊たちは人の生活領域に進出した。熊を怖いと思ったであろう男たちは何故かその熊をオブジェとして木彫りまたぬいぐるみ等の無害な象徴として製作、日々眺め、自らの傍に置いた。
実際わたしが1番関心があるのは人間なのである。昨日のid:pooteenさんのページに図らずも集約されていた戦国の世以降の日本男子が一様に没個性であったという奇習。殿様たちはひたすら無口、あるいは謎めいた言い切りのだからそこは暗号で通した。
オトコたるもの威厳を保つべしなのだ。いやオトコだけとは限らない。長年に渡りわたし自身が弱音を吐くことを恥だと頑なに貫いてきたのだ。謎めいていることこそが我が処世術であった。
熊にはその謎を解く鍵がある。
熊を見つめたいのだ。熊である。熊なのである。pooteenさん熊なんだよ。わかんないでしょ。頼むからここはわかんないままでいてよ。そこ重要なんだからさ。
諸事情により徳川士族の木彫り熊研究は停滞している。まあ北海道へ調査へ行くための金が無いとかそんな気力が時に足りないとか、寒さが苦手の夫の同意が得られず北海道に移り住めないとか、わたし自身夫を放置してまで熊研究をするつもりが無いとかそんなところだ。
木彫り熊研究の発端は徳川義親であった。徳川義親という人はとかく謎の多い人である。粗方の入手可能な文献を読み尽くしたが謎は謎のままがいいなどと思ったりする。彼はもう死んでこの世にはおらず訪ねていくこともi can notだ。仮に生きていたとする。訪ねていったとする。おじいちゃんはもごもごいうばかりだろう。益々謎は深まるだろう。そしてそんな義親がわたしは好きなのだ。
義親の文献で唯一手元に無いものがある。大正14年の「木曽山考」である。
わたしは生来貧乏症で欲しいものを全て手に入れることを心の底からひどく恐れていて、この「木曽山考」を老後の愉しみにと残してあるのだが、そうだ木曽山だともう何ヶ月となく朝に夕に考えている。
中山道は徳川家康が参覲交代のために整備した五街道のひとつである。
もう時間が無くなって来ちゃったんでざっくり書くが現在では贄川宿から落合宿までの12の旅籠を「木曽路」と区分することが通例となっているらしい。
木曽路である。
これって木曽山だよね。
現在木曽路と呼ばれる区間には主な公開文化財及び資料館が8つある。どれも大変興味深い。箱物巡りは研究のオアシスだ。
中山道木曽路を奔流に木曽山を隈なく歩く。今後しばらくはこれをやっていくことに腹が決まった。木曽路では無いが中山道には軽井沢宿もある。軽井沢ネイチャーセンターピッキオにはカレリアン・ベアドッグも勤務しているしね。
ツキノワグマだって熊なのである。
さて今日は木工教室だ。
朝だ。
とりあえず珈琲淹れましょうね〜。