連載小説 小熊リーグ㊵

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彼女は一旦アパートへ帰ったが荷物を作り入院となった。今回の自殺企図はビニール紐で自分の首を絞めるというものだったがその少し前にあるだけの精神安定剤をのんでいてもうろうとしてしまい結果的に強く締め上げることが出来ず死ぬことは出来なかった。

あれから僕はマスターの店の空き倉庫を借りてパンを焼く修行を始めていた。自分の手で一つ一つ煉瓦を積み上げて窯を組み上げると煙突を取り付けて屋根の上まで伸ばした。火力は薪だ。

最初のころはなかなか失敗も多かったが少し慣れ始めてきたころだった。彼女は精力的に手伝ってくれていた。まだまだ始めたばかりで何もかもが手探りだったが食パンやロールパン、ライ麦パンやカンパーニュも焼く。日に一回はマドレーヌやクッキーなどの焼き菓子をあれやこれやと焼いて彼女がそれを袋に詰め値札を貼るとマスターがそれをお店に置いてくれた。

彼女の不調の原因ははっきりしていた。ある時彼女の両親が僕たちのパン焼きを見にマスターの店へやって来たのだ。彼女が家を出てから3ヶ月、彼女の両親が彼女に会いに来たのはあれが初めてのことだった。

両親はお店に入るとボックス席に座り珈琲を注文した。マスターから倉庫の説明を受け、少し時間がたってマスターに挨拶してから店を出るとパン焼き窯のある倉庫へと来た。

「翔子ちゃん」母親が彼女を呼ぶと彼女は驚いて作業の手を止め母親をじっと見て言った。

「何しに来たの」

「何しに来たって貴女に逢いに来たのよ。久しぶりね、元気だった?陽一郎さんにもお世話になってるしね。これ、何かの足しに使ってね」

彼女の母親が茶封筒を差し出した。彼女が中身を取り出す。中には現金一万円が入っていた。

「ありがとうございます」僕はお礼を言った。彼女は母親をじっと見ていた。父親は不機嫌な顔をして倉庫内を見渡している。

「いつかは焼いたパンをスーパーなんかのお店へ卸そうと考えているんです。沢山は焼けないから僕たち2人でやっていくつもりなんですよ」

父親は僕の顔を見ないで出口へと向かう。それじゃ、と母親もそそくさといったしまった。僕たちには懐かしさよりも寂しさが残るそんな訪問たった。

その日夕方になり入院中の彼女を見舞おうと窯の火を落としてしまうとマスターに挨拶するために店を覗いた。すると新海氏がカウンターに座っていた。

「おお久しぶりだな。いつ来たんだ」僕が声をかけると新海氏は今日はパン焼き終わりかい?といい、自分の隣に座るようにと勧めた。実はゆうべから彼女が入院中だと僕がいうとそうか、といい、僕も一緒にお見舞いに行ってもいいかと尋ねた。それで僕たちはマスターに挨拶をして店をでた。

「アクティングアウトのきっかけは両親だと?」新海氏が言った。僕たちは切符を買いホームで電車を待っていた。新海氏の薄茶の革のジャケットと栗色の少し長めの巻毛とサングラスがまるで芸能人のようで近くの帰宅途中の女子高生がざわついている。電車が来て新海氏が杖で前方を確かめ進むのを見て女子高生たちは一斉に息を飲んだ。視覚障害者が珍しいのか。それとも芸能人でなかったことが残念だったのか。

「彼女自身から直接聞いた訳じゃないんだけどね。あの日の夜に1回目の自殺企図があったんだよ」電車はそこそこ混んでいた。

「どんな事をやらかしたの」新海氏が言った。

「うん‥‥こう、ビニール袋をね」僕はふと僕たちの前に座っている中年男性の視線を感じで黙った。

「ここじゃ言えない感じ?」

「まあね。欧米にはそういう性癖の人たちがいるらしい。酸欠になりながらのセックスが止められず死ぬこともあるらしい」僕の前の男性がiphoneとイヤホンを鞄から取り出したのだが何故だかイヤホンは耳に付けないで手に持っていた。

「お前らそういういけないことしてるの」新海氏は見えない目で僕を見た」

「んなわけねえだろ。僕の扱った患者ではなかったんだけれどそんなふうにビニール袋を頭から被って酸欠で亡くなった患者がいたよ。その時は明け方でさ、僕はパン生地の支度で早く家を出たんだ。彼女はビニール袋を被ったまま苦しくて部屋を暴れ回って、挙句に窓ガラスを割って二階から転落したんだ」

「それで大丈夫だったのか」男性のiphoneをいじる手の動きが思わず止まる。

「下に軽自動車が停まっていて彼女はボンネットに落ちて弾んでから中庭のドウダンツツジの植え込みにうまいこと埋まってさ」

電車が駅に着いた。僕たちは改札を抜けて舗道を右に折れた。日没が近い。時計を見ると5時だった。

「今ご飯かなあ」

「デザートにケーキ買ってってあげようよ」新海氏が言った。

「ローソンあるよ」僕は新海氏の手を肩に乗せると右を向いて歩き出した。