徳間書店「今日も森にいます。東京チェンソーズ」

f:id:fridayusao:20160406170259j:plain

東京チェンソーズのことは全然知らなかった。2006年、東京都森林組合で働いていた若い男性数人で立ち上げた林業事業体である。山は難しい。急峻な深山はまだまだ任せられないと言う林家もあると言うが間伐、下刈、枝打、つる切り、植栽、測量、山仕事は全てやる。彼らは林業のプロである。

木曽山の山仕事は今はどうなっているのだろうか。知ったところでわたしには何も出来はしないが。

どうやら主人はオークションで目に付く安い木彫りの熊を買い集めはじめているようである。それにしても木彫りの熊は安い。中には「八雲・柴崎」などと明らさまに偽って高値を付けているものがあったりするが、銘のないもの、古いもの、「よくわからない」とあるものはたいてい数百円で手に入る。

「江戸の森林学」は面白すぎてなかなか進まない。脱線の連続だ。というのも隣町の図書館で小学館の江戸の図鑑を借りてきた。わからない時はこれを見る。フルカラー650頁で眺めているだけでも楽しい。

例えば江戸時代に検地という幕府の仕事があった。資料は幕末のものだが幕末の役人たちがなんとも奇天烈な器具を用いて土地の面積を測量している絵がある。検地により土地は等級を付けられ年貢が算出される。

検地には縄心(なわごころ)、余歩(よぶ)と呼ばれる控除があったとある。実面積よりも検地帳への記載面積を少なく見積もるなどして農民たちが破産しないようにした。しかしエコ贔屓にならぬようにと検地条目と呼ばれる規則も設けられた。

享保9年まで木曽山には検地がいっさい入らなかったようだ。無高、とあるから年貢は納めなかったみたいだけれどよく読むと木年貢とある。どうやら木曽山の人たちはお米ではなく材木で年貢を納めていた。

「谷中御救金」(たになかおすくいきん)とある。尾張藩から木曽の村々へ与えられた給付金である。お米は出さなくても良いのだけれど材木を供出する木曽山の村民の生活はけして楽ではなかった。

「森林の江戸学」は江戸初期の材木商人角倉素庵のところでストップしている。角倉素庵は角倉与一とも言う人だが角倉家は素庵の父の代より資金力をもって富士川天竜川木曽川の河川改修及び整備、材木運搬業に於いて特化し繁栄をした。

角倉素庵はらい病で亡くなっているが、亡くなる2年前に嵯峨本という本を残した。とにかく基礎知識が無いというべきか、わたしは学校で授業をちゃんと聞いていなかった。わたしはこの嵯峨本が印刷された出版物であるなどとは夢にも思っていないので、雲母摺(きらず)りの図案という実物の写真を見たときは本当にびっくりした。

わたしにはどうやら江戸時代イコール掛け軸、絵巻のイメージしかないのだなあ。この小学館の江戸の図鑑の『家康が推進した活字本と木版印刷』の頁に釘付けなんである。

詳しいことはわからない。それにまあこんなことは調べないでも生きていける。だけど家康は京都でお坊さんたちに「作ってください」とお願いをして10万個の木活字を作って貰っている。図鑑でそれを見ています。漢字が彫ってあるんだよ〜。お坊さんたち上手いな〜。しぇー。

家康は征夷大将軍を2年で降りて「トップ争いはもういいじゃん」とノーモアウォーのお手本を見せた。

ひょっとすると彼ももうおじいちゃんだったし、戦さとかじゃなくてもっと他にやりたいこといっぱいあったのかもしれない。家康はちゃんと時間作れたのかなあ。夏の陣とかあってあれからゴタゴタしたよね。

そして再び東京チェンソーズのホームページを見ています。ドイツのチェーンソーメーカー・スチール社の最新木こりファッション。地下足袋には滑り止めのスパイク付いてます〜。(地下足袋はニッポン製だよね)。

あーまた熱上がって来た。

寝よ〜