映画「さよならドビュッシー」を観ました

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GW中と今週と続けて長女の家の庭でBBQがあり、わたしはダッチオーブンで楽しくパン焼きをさせてもらった。生地はAll全粒粉でwetは牛乳、モラセスと蜂蜜に卵黄も入れた。2度目はそこにひまわりの種と南瓜の種を混ぜ込んだ。

 

庭で即席かまどを作るのにも慣れた。ただしダッチオーブンが少々重いのが難点だ。夜だいぶ酔って片手にダッチオーブンをぶら下げて歩いて帰ったせいで右肩を故障した。どうやら今シーズンを棒に振ったようだ(なんのごっこなんだよ)

 

6月の徳島旅行の宿と、帰りの高知からの飛行機を予約した。5月は旅行計画の月だ。今年はあまり遠くへは行きたくなかった。何故だかわからない。疲れているのかな。

 

何年か前の4月か5月に母は亡くなった。母の命日を5月だと記憶していたが死んだよと連絡があったのが5月なだけでわたしは母が何月何日に死んだのかを知らない。昨日母の夢を見た。夢の中で母は白い顔で棺に収まっていた。

 

わたしが中1の5月、わたしは髪にパーマをかけた。それまでパーマをかけたことがなかったせいでわたしは鏡に映った自分の顔を見てそれは驚いた。翌朝わたしは学校へ行く前に風呂場で髪を自分で短く刈ってしまった。母は怒らなかった。

 

短く切った頭で傘を差し雨の中を学校へと歩く。教室でクラスメイトたちに何を言われたかは全く覚えていないがその日からわたしは自分のことを「わたし」ではなく「僕」と呼ぶようになり、それは親に折檻されても治らなかったし自分でもどうにもならなかった。その朝のことだ。僕はわざと水溜りを歩いて、自分の靴と靴下とを泥だらけにした。

 

その頃の記憶はとても思い出しにくい。わたしは母を殺す夢を何度も見た。それはいつも同じ夢だった。母を殺す。そして死んだ母の体から空気を抜くと折り畳んで箪笥に仕舞う。ところが翌日母は息を吹き返し店のカウンターに立っている。

 

おそらくその頃わたしはわたしの人生で母を最も身近に感じていた。母はわたしにメイクの仕方を丁寧に教えてくれた。アイラインは睫毛と睫毛の間に点で描け、口紅は口角をくっきりと描け。中学生のわたしは毎日学校終わりにはきっちりとメイクをしてせっせとお店で働いた。

 

おそらくあの頃わたしはわたしの人生で母と最も長く時間を過ごした。珈琲を淹れる母、シェーカーを振る母、鍋を磨く母。母は時折り笑顔でわたしに何か話し掛けたりした。

 

わたしに初潮が来ると母はわたしのためだけに一体の人形を買ってくれた。ある日わたしは母に連れられて電車でT市まで人形を買いにいった。人形は磁器で出来ており、ヨーロッパ風の写実的なものだった。わたしは嬉しかった。妖艶なその人形の女性をわたしは毎日眺めた。

 

母との絆が築かれはじめたその時期に母を殺す夢を繰り返し見たのは何故だろう。母を殺したいほど憎んだ時期がわたしにあったとすれば、それはやはりその時期だったのかもしれない。

 

人を殺したいという感情が貴女にわかりますかと以前主治医に尋ねられたことがある。わたしはその時何と答えたのだろうか。中学生のわたしが自分のことを僕と呼ぶことをやめられなかったのはわたしがオンナである自分を嫌悪していたからかもしれない。

 

夢の母殺しは自分殺しの変化形なのだ。自分はやがて大人になり母の様な馬鹿なオンナになるに違いない。わたしはそれを認めたくなかった。何度も何度も夢の母は息を吹き返した。わたしはその様にして理不尽な現実を受け入れていたのだ。

 

殺人は重罪だ。利己的で自己本位だが誰かを殺すということは幼稚に歪んだかなしいメッセージである。2度とは訪れない幸せなこの時を閉じ込めたいという思いがたぶんわたしにはあった。そしてわたしは夢で母を殺した。母を大切に箪笥に仕舞った。

 

ヒトは嘘をついていると上手く生きられない。「さよならドビュッシー」の主人公はいっとき嘘を選んだものの嘘の重みに次第に耐えられなくなった。可哀想に最も幸せだった記憶を体内に閉じ込めることが出来るなら幸福だ。

 

わたしは観た映画の批判はしない主義だ。ピアノ教師かっこ良かった。しかしながらヘアースタイルいただけなかったなあ。あれはあかん。プロットは良くできていた。ピアノ教師が塚地さんでもわたしは最後まで観たと思う。楽器演奏は時には言葉を超えるメッセージを放つ。

 

わたしがわたしの母を心から愛していた時期が、あんな母でもこんなわたしにも確かにあった。わたしの胸中がどうしようもなくひしゃげて歪んで、泥だらけの靴と靴下で歩いたあの日の朝から、ほんの少しの期間のことだ。麗しい奇跡の5月のことなのだ。