平凡社 田部重治「わが山旅五十年」

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三宮センター街古書店でW・ウェストンとこの田部重治が並んでいてどちらも同じくらい欲しいと思った。しかしその日はツキノワグマの資料を既に入手していたので三女の家に帰宅した。

数日後再び三宮。三女が精神科で少し穏やかに眠れる薬を貰ったのだが以前の主治医の紹介状に解離性同一性障害という文字を見つけたという。わたしは違うのにと三女。三女によれば紹介状には「解離性同一性障害と既住」とあったらしい。

キジュウって何?既に住む、その病気の人と一緒に住んでたことがあるってことじゃないかな、わたしのことだよ。三女は黙る。

ねえママあの本屋行く?うん。わたしは吸い寄せられるように再び古書店へ。あった。ウェストンさんと田部重治さん、並んでる並んでる。その時わたしの中で誰かが「キジュウ」と呟いた。わたしはいきおいなんとなく田部さんを1冊持ってレジへ。うん、2冊だと重いしね。

田部重治は登山ではないと言われている。少し読み始めて納得。彼は山旅を通して自身の目で見たものを淡々と書くのみ、ねばならないというような強引さはそこには無い。

第一次世界大戦勃発の日には原稿書きの仕事をするため家族とともに神河内(現在の上高地)の自宅に居た。その日近所に居住していた馴染みのフランス人神父とその友人のドイツ人2人は敵味方となったと綴られている。

「彼等は敵味方に別れなくてはならぬ運命を悲しみつつ、握手して別れゆく光景が私の心を打った」(p204)。

一方で田部はこの日に別れたドイツ人の1人と後に再会している。「彼は日本にとられた」とあるのでドイツ人の方は捕虜として来日したのだろうか。

夕方何か料理をしていたら突然三女がわたしを叱責した。わたしが三女に言ったひとことが三女は気に入らない。撤回せよ、謝罪せよという三女に、ではそれは言わなければ無かったことにでもなるというのかとわたしも譲らなかった。三女は止まらない。子どもは親を選べないのよと泣きだした。

悲しみを束の間のものとする方法があるとすればそれは考え方を変えることである。過ぎたことに固執しないと主張するあまり、わたしの厳しい言葉の数々が若く柔和な三女のこころを傷つけていたことにわたしはそのときも気付かなかったのだ。愚かなことである。

様々な思いでその瞬間のわたしの内面は饒舌になる。内面が饒舌であればあるほどわたしは黙りこくる。黙っていないで言葉を言ってくれなきゃ、言葉でなければダメなのだよと三女がわたしを諭す。わたしは言った。

わたしの気持ちと貴女の気持ちは別々である。わたしと貴女は他人である。‥‥まあそんなようなことだった。

すると三女は声を荒げた。ママは自分勝手で嘘つき、どうしていつもそんな風なの。

わたしも声を荒げる。これまで嘘をついたことがあったかもしれない。だけど悪意を持ったことはない、断じてない、このこころのどこかに、貴女に対して、このこころで悪意を抱いたことなどこれまで一度もなかったと。

気付けばわたしは台所で鬼の様な形相でハラハラと涙を流すまま仁王立ちのような感じであった。

結婚と共に巣立ちさせたとばかり思っていた三女の今後の身辺がわたしには心配でならないのだ。出来ることなら目の前の娘を四つ折りにしてポケットに入れて持ち帰りたいのだ。このまま離れるということがとても辛かった。

翌日高速バスで四国入り。鳴門からは路線バスで徳島へ。宿は線路から少し山に近い場所のバックパッカーズプレイス。ドミトリーに一番乗りだったわたしは二段ベッドの上の段にするすると登り早速荷物を配置して寝床を秘密基地風にした。

シャワーを浴び、パブリックスペースで簡素な夕食をとる。まだ夕方の5時であったが日中のバス旅で疲れていた。眠くなりベッドで布団を被り寝てしまった。iPhoneにメールが来て目覚めると11時。わたしはつけっぱなしの電気を消灯してからメールを読んだ。メールは三女からだった。

三女はメールで先日の口論を悪かったと詫びたあと自分はママが頭の病気で迷惑だと思ったことは一度もないと書いてきた。この子は相変わらず嘘つきだな。

わたしはメールを打つ。‥‥「メールありがとう」

こんな時には何と言えばいいの。わたしはいったいどんな母親を目指せばいい。わからないままわたしは言葉を付け足した。

「わたしのことなど忘れてくださいな」

娘の嘘つきは君の遺伝だ。パトリックも泣いていた。