ふきのとう/やさしさとして思い出として

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ビーツを蒸篭で蒸している。さっき中を覗いてみたらビーツから赤い汁がワックスペーパーにだいぶ出ている。ビーツの赤はいい。彩度の高いあっけらかんとした明るい赤である。

昔『ふきのとう』という男性のフォークデュオがあって今はもう解散しているが、わたしは高1か高2の冬にこの『ふきのとう』のホールコンサートへ行った。

高1か高2か‥‥やっぱり思い出せない。わたしはこういう記憶の混濁がよくある。ふきのとうをヤホーで調べるとあの山菜のフキノトウばかりが上がってくる。ミュージシャン『ふきのとう』が1980年頃に確かに存在していたことを確認した時にはわたしはフキノトウの天ぷらがだいぶ食べたい感じになっていた。

ふきのとうのコンサートへ一緒に行こうとわたしの分のチケットまで買ってくれた友人は顔は思い出せるが名前は出て来ない。有名な私立の女子校へ通う開業医の娘だった。

わたしと彼女が出会ったのはとあるキリスト教の修道女会が主催した青年向けの修道士募集の合宿であった。20人程の参加者の中から2名の修道女または修道士が選ばれる。今思えばまあ狭き門である。彼女もわたし同様、君たちは選ばれなかったもういちど下界へ戻れ組のひとりだった。

彼女とわたしはどちらかと言えば彼女のほうが積極的にわたしに声を掛け電話を掛けて来たりした。当時のわたしは洞察力や教養というものが全く無くて私立の女子校へ通う開業医の娘の苦悩など理解出来なかったが彼女は確かに苦悩を抱えており、その苦悩は当時のわたしの泥臭い日常よりもだいぶ上質でお手柔らかなものにわたしには映っていた。彼女は全く好ましい存在であった。

ところがある夜会ったこともない彼女の母親からわたしに電話があり、なんと母親はわたしでなくわたしの母に話があるという。母親同士の会話がどんなものだったのかはそのときはわからないがだいぶ後になってその夜彼女が失踪していたことがわかった。後日談によれば彼女は医者になるのが嫌で家出をしたということだった。

その後の彼女の足取りはわからない。その後も何もわたしは彼女の失踪にはなんの関わりも無かったのだ。

彼女の母親はわたしの電話番号を件の修道女会へ問い合わせて知ったということがあとになってわかった。

フォークデュオふきのとうのメンバーは2人とも北海道の出身である。それを知ったのは今日であるが、ふきのとうの曲は何曲か覚えていた。失意や落胆を爽やかに歌っている。時にしっとりと、時に軽やかに、ここまで美しい喪失の景色は見事である。

「やさしさとして思い出として」は特に好きな曲である。8分の6拍子がいい。揺れるように、はたまた返すようにあなたは居ない、あなたはもう居ないとお手上げの世界をリリカルサウンドで盛り上げる。

彼女の母親は何故わたしでなくわたしの母に電話を代われと言ったのだろうか。この娘もしや失踪事件の片棒を担いでいやしないだろうかと電話口のわたしを疑ったに違いない。

そりゃないよ、おばさん、あたしたちふたりは修道女になろうってんで、神様にお仕えしようって集まりで出会ったんですぜ。

母がその夜その電話についてわたしにどんな言葉を掛けたのかも今はもう忘れてしまった。たぶん忘れてしまうくらいちっぽけなことだったのだ。その夜店は忙しく、客は皆酒に酔っていた。

あどけなく笑った彼女はとても魅力的だった。家出をするなんて勇気がある。その日から彼女の笑顔は1部上場のランクイン。

行き先は北海道だろう。うん、きっとそうだ。

だいぶ遅くなったがわたしの提供出来る情報はそんなところだ。