上杉茂憲(もちのり)

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sumika「センス・ オブ・ワンダー」

 

上杉茂憲の名をなかなか「もちのり」と読めない。幕末14代将軍徳川家茂もなかなか「いえもち」とは読めない。そういうときは上杉茂憲も徳川家茂も正月に餅を食べただろうな、と想像する。餅を食べるお二人を脳に強く焼き付ける。

 

中公新書「沖縄の殿様〜最後の米沢藩主・上杉茂憲の県令奮闘記」高橋義夫著を最近また念入りに読んでいる。この中公新書の表紙字の「上杉茂憲」に「もちのり」とルビがあることにさっき気づいた。やだ親切ね。

 

茂憲は1844年米沢城の生まれ。彼は城で生まれたプリンスである。16歳の時江戸へ出張し、徳川家茂に拝謁(はいかつ)する。実はもちのり元服の折、将軍の茂(もち)を賜った。彼らがもちもちなのにはこういうわけがあるのである。

 

もちのりは伊藤博文の三つ年下。わたしの近代日本史世界観は伊藤博文が真ん中にある。

 

米沢といえば奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)だが、茂憲は戊辰戦争終結事24歳、父斉憲が隠居、13代米沢藩主となるが、1年7か月後には廃藩置県となる。

 

一緒に沖縄へ赴任する池田成章(なりあき)は5つ年上。彼は大抜擢である。そもそも彼は上杉家の小姓(秘書兼会計係兼ボディガード)だったんだけど岩倉具視から「君、茂憲と一緒に沖縄行ってくれないか」と直接お願いされ、茂憲に県令の辞令が出ると彼は内務省準奏任(そうにん)御用係に昇進する。

 

この突然の人事に成章は「え、まさか病弱な(病弱でした)うちのプリンスが沖縄転勤?」とすごくびっくりしたけど県令(県知事ですね)のお給料の高いこと。彼は茂憲に尋ねることもせず「いきます」と答えている。

 

その年の沖縄は琉球処分直後、沖縄本島自体は極東と欧米との集線装置となっていたのかもしれない。首里城へ行くとまず驚くのが首里城は城でありながら迎賓館である。日本人のお客様はこちらへ、中国人のご一行様はこちらへ、欧米のお客様は痛み入りますがお客様の船上パーティとなります、みたいな感じにひっきりなし、外交に錐揉(きりも)みされていた。

 

5、6年前に読んだ本だがこの中公新書はとても興味深い。赴任後茂憲らは早速の島内巡回の旅に出るのだが、最初の巡回で庶務記録係の秋永桂蔵という人が佐敷(さじき)間切(まぎり:市町村的な呼び名)の宿にふんどしを1個置いてきてしまう。

 

那覇へ送られてきたふんどしは誰のものなのかわからなかった。「遺失物あり、その主を探偵するは、警部の人なり」と記録係秋永は書いているが、数日後「私でした」と秋永は茂憲に謝罪。茂憲はふんどし置き忘れの罪に対し、秋永のニックネーム「仙人」(どゆこと?)からにんべんを取り、「山人」とする、なんつう小粋なお咎めをしたなどとある。

 

茂憲楽しそう。よかった。