連載小説 小熊リーグ㉞

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僕はにわかに信じ難い気がした。あの紳士然とした光盛医師が十代の風俗嬢に入れ込んで日常を持ち崩す。

「‥‥あの、それは、光盛さんは何かを発病したということですか」

父はその時のことを思い出したのか一瞬視線を泳がせた。父は動揺していた。そんな父を見ていられなくて僕は腕時計をちらりと遣った。それで少し彼女のことが心配になった。電話するかと父が言ったので彼女のiphoneに掛けてみると彼女は僕の実家の客間で眠剤を飲んで今から寝るところだと言った。僕は安心して思わず笑いがこみ上げて来た。おやすみと言って電話切った。会話の様子から状況を察した父も笑った。

「なんか酒あるか」父が言った。僕はキッチンの戸棚から赤ワインの新品を出して来た。コルク抜きをガチャガチャと探しているうちに父がその辺のナイフで栓を抜いて、あまり綺麗とは言えないグラスを取り出して注ぐとゴクゴクと飲んだ。

僕は確か新海氏が来るたびにもって来てくれるミモレットが冷蔵庫にあるはずだと取りに行く。オリーブの塩漬けの瓶、ピクルス等、僕はワインの宛てを皿に盛り付けて運んだ。お前も飲むかと言われた僕は断った。眠れないので眠剤を増やしていた。

父は早いペースでワインを飲んでいく。遺伝子なんだと父が言った。なんのことかわからずに黙っているとアセトアルデヒドだと父が笑った。どうやら酒酔いしない体質のことを言ったのだ。

「俺は苦学生だったんだ。親父はゼネコンの中間管理職で仕事人間だった。医大の費用は自分でローンで返したんだ」

父がこんな風に語るのは珍しいことだった。

「俺は母親の顔を知らないんだ。姑と揉めて産まれたばかりの妹を連れて俺が3歳の時に離婚して実家に帰ったらしい。俺の養育権と親権を親父は譲らなかった。たぶん後取りが欲しかったんだろうな」父はピクルスとチーズ、オリーブを順序良く食べた。

「光盛に会った時俺は正直あいつに憧れた。金持ちで成績もいい。女にはモテるし話も上手い。なんで俺みたいな田舎者とつるんでたのかわからん。ただあいつは酒が弱かった」父はそう言うとワインの瓶を開けてしまった。

「上手いワインだな」

「新海さんがくれたんだよ」

「なんかあの新海って男は光盛に似たとこがあるな」父はニヤニヤと嬉しそうに首を傾げた。僕がもう一本ワインを出すと父はまた器用にナイフでコルクを抜いた。

「俺はあいつが弱るときは必ず側に居た。あいつの弱点は女だ。あいつは女に緩かった。悪そうな女からあいつを遠ざけるのが俺の役目だったんだ」すると父は突然真面目な顔で僕を見た。

「いいか、お前の母親は悪い女じゃなかったんだ。少しだけ、ほんの少しだけ運が悪かったんだ。お前の母親はびっくりするくらい家柄が良くてな。親父の家系には海軍の戦犯がいて、使用人が何人も居る豪邸で育ったそうだ。世が世なら上流階級のお嬢様でいられたんだろうな」父はこめかみを抑えた。

「痛いの?」

「いや、思い出したんだ。園子のことをさ」園子というのは僕の母親のことだ。

「光盛があんな風になったのも仕方のないことだったんだ。俺はユングとか好きで読んでたから園子に会った時これはヤバいって思ったよ」

「転移‥‥ですか?」

「いやそんな簡単な言葉じゃとても片付けられないんだ。吸い込まれるみたいな、こう会った瞬間にザワザワっとしてな。今ならああこの子は何か持ってるなとかわかったんだろうけど、その頃は駆け出しのインターンだ」

僕はだんだん話が見えてきた。

「僕の母親は何処で出産をしたんですか」

「そりゃ病院だよ。でも産んで半年も経った頃ケースワーカーがアパートから赤ん坊を引き取って来たんだ。園子は約束したその日赤ん坊をおいて飛び出したきり連絡が取れなくなった」

「‥‥その、他の家族は、お婆さんとかお姉さんとかそんな人は居なかったんですか?」

「園子は妾の子だったんだ。豪邸の同じ敷地内で育ったようだけれど風俗で捕まったのはどうやら1度じゃなかった。‥‥園子の生んだ子の面倒を見る親族はひとりも居なかった」厳しい話を聞きながらも僕は気持ちが緩んでいくのを感じた。その頃はウィルドッグは人間の年長の女性のような風貌に変わり僕の内面を時折支配していた。相当に参っていた僕に代わりウィルドッグが言った。

「光盛さんはどうやって園子さんと離れることが出来たんです?」

「いや、一緒に暮らしてたんだ。アメリカ留学も麻酔科医もみんな辞めてあいつは近所のクリニックでアルバイトしながら園子と赤ん坊と一緒に暮らしてたんだ」そう言って父は僕を見た。

「実は光盛との暮らしが園子には1番キツかったんだ。温かで安定した、朗らかに過ごす毎日が」

「わからない。全然わからない。どういうことですか」僕は次第に取り乱し始めた。「幸せではなかったんですか、母は、僕を産んで幸せではなかったんですか」

父が突然僕の両手を取った。

「幸せだったんだ。幸せだったんだ」

父の手はびっくりするほど冷たかった。