A・マルチェッロ オーボエ協奏曲ニ短調第二楽章

インスタグラムにJ・S・バッハのポートレイトをアップしている人がいた。青い海やメキシカンプレート、犬や猫。わたしのフォローしている人たちは主にそういうカテゴリーの人たちだからその日、J・S・バッハの顔を見てわたしはしばらくのあいだ見入ってしまった。

バッハやヘンデルテレマンなどのオルガン曲には強い郷愁がある。日曜日の朝だ。わたしは小さい子どもである。そしてラジオだ。聴こえてくるのはバロックだ。

吉田秀和という音楽評論家がいる。父はたいてい吉田秀和を読んでいるのだ。わたしも字が読めるようになってのちだいぶ時間がかかったが吉田秀和を読んだものだ。音楽の評論なのにランボーとかボードレールとかフランス語の長い引用があった。その吉田秀和はラジオ番組のパーソナリティもやっていた。その番組もよく覚えている。

クラシック音楽といえば学校ではベートーベンやモーツァルト、バッハ、ブラームスシューベルトとなぜかドイツ率が高い。明治政府は軍隊と学校と戸籍制度をセットで持ち込んだと言われているが公教育におけるクラシック音楽ドイツ至上主義は紛れもない偏りである。実際にヨーロッパへ行くと聞いたことの無い名前の音楽家たちが素晴らしいとされているというが、刷り込まれた、それは間違い無い。しかしわたしはバッハが大好きなのだ。仕方がない。

数年前関東に住んでいた時はテレマンばかり聴いていた。バッハばかり聴くなと脳内が騒がしくなったからだ。正直わたしは毎日バッハで十分行ける。1年分のローテーションを組むなら楽しいかもしれない。それで実際にテレマンを長く聴いたあとバッハに戻るとこれが素敵な感じだった。バッハは一層の鮮やかさを増すのだ。

それでテレマンヘンデルハイドン。ギボンズ、バード、クープラン。こうしたオルガンさん達を挟みつつバッハを聴く。

しかしバッハはバッハである。

混ざるということはない。

バッハのワイマール時代(バッハ20代である)、アレッサンドロ・マルチェッロという貴族のオーボエ協奏曲ニ短調というのをバッハはチェンバロに編曲している。

この曲は永らくバッハオリジナルと混同されていたようである。バッハの評価は割と近年であり、バッハ作品の捜索活動は研究家達によって今も続いているようである。

わたしはとうとうしんじつ凹むときはこのオーボエ協奏曲ニ短調を聴くことにしている。必ずオーボエのやつを聴くようにしている。

悲しい。苦しい。もうあかん。一巻の終わり。

バッハがこの曲に感動して編曲したとすればバッハにもきっと何か人生の悩みがあり、目を潤ませてこの曲を味わったに違いない。いいから話してご覧よ。何悩んでんの?教会の音楽作るのつまんなくなってきたの?

この曲は普通にロマンチックである。

わたしはこれをiPhoneのお気に入りに入れて仲良しに会うと強引に聴かせたりもする。

ねぇ、これが中世ヨーロッパの曲なんて信じられないよね。徳永とか歌詞つけてカバーしたらいいよね。そういうことではない?吉田秀和ならなんていうのかな。バッハ好きもピンきりだと嘆くだろうか。そんなことはないよね。ね。