連載小説 小熊リーグ㉟

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医大のクラスメートに医者という職業はヤクザな家業だと言った奴が居た。親父もその親父も医者だ。従兄弟も叔父も一族はみんな医者以外の職業をしたことがないから、医者以外の仕事は想像すら出来ない。親父もその親父も本心では職を失うのが怖くてたまらないんだとそいつは言った。

生まれた日から将来は医者になるのだと言い聞かされて育ったそいつは卒業を目前にして大学を退学した。ひょっとすると医者になれなかった時にはどうしたらいいのかという不安に打ち勝てなかったのだろう。

父の為に呼んだタクシーが父を乗せて行ってしまうと、僕はフリースのパーカーのポケットに手を突っ込んでカンカン言う階段を1段1段登った。

朝までのあと少しの時間をどう過ごそうかと考えキッチンの戸棚から新品の中力粉を取り出して測った。冷蔵庫の水切りヨーグルトのホエーに牛乳をたして雪平鍋で温め檸檬を絞る。底に固まったチーズをステンレスのボールに取り分け卵と砂糖、塩を加えて牛乳も注いでぐるりと混ぜた。

冷蔵庫にはバターが無かった。仕方ないのでオリーブオイルを垂らす。測っておいた中力粉は一気に入れる。新品のペーキングパウダーの缶を開ける。忘れるところだった。適当過ぎないか。まあなんとか焼ければいいだろう。僕は突然パンケーキを焼こうと思ったのだった。

珈琲豆を電動ミルで挽く。成城石井のブレンド。パンケーキを焼くあいだ、珈琲はコーヒーメイカーに任せた。珈琲の甘い香りが部屋に充満した。「幸福感もストレスになる」僕は父の言葉を思い返していた。

パンケーキを焼くときにはフライパンには何も引かない。熱いフライパンにいきなり生地を流す。パンケーキの淵をぼんやりと眺めては記憶の中の母の顔を思い出そうとしている自分に気付き、咄嗟に大波のように胸にせり上がる強い思いを止められずに戸惑いながらもなんとかフライ返しでパンケーキをひっくり返した。

「幸せに慣れていない人間は確かめたくなるんだ」父が言う。強い口調だ。母は生後半年の僕を置いて再び風俗店で働くと言った。ターンオーバーしたのちのパンケーキは結構すぐにお皿に移す。火はずっと強めだ。

「もちろん光盛は園子を説得した。園子は性アディクションだったんだ。ある日知らない男を部屋に連れ込んでいた」僕は2枚目のパンケーキの生地を流した。

「部屋に入ると園子は笑ってたそうだ。光盛が俺に話してくれたよ。園子は知らない男からはアヤって呼ばれてたそうだ。その時はまだ俺たちは知らなかったんだ」パンケーキは気泡を出した。

「園子は解離性同一性障害だったんだ」僕はタイミングを測ってパンケーキをひっくり返した。芳ばしい香りがした。皿にパンケーキを上げてしまうと僕はガスの火を止めた。突然脱力してしゃがみキッチンの床にへばり付いた。僕は拳を強く握りしめた。

「泣いてもいいんだよ」ウィルドッグの声がした。「泣くんじゃねえぞ!」ウィルベアは自分がもう既に泣いていた。しかし僕は泣かなかった。僕は泣けなかったのだ。

父は僕が子ども時代からずっと僕の感情にとても敏感だった。誰かを羨んだり、自分の境遇を哀れんだりする僕の心の揺れを的確に指摘して、そのたびにそれは恥であると僕を諭した。僕は父に励まされるのが好きだった。僕はずっと父の前では強いところを見せなければならなかったがこれまではそれが逆に僕を前に進ませていたのだ。

しかし夕べ、父は僕と彼女との暮らしを真剣に心配していた。あれ程に弱々しい父を見たのは初めてだった。

僕は立ち上がりカーテンを開けた。東の空が明るい。気づかないうちに日の出はもうとっくに過ぎていた。

僕は彼女のiphoneにコールをし続けた。さあ起きろよ、起きるんだ。これからは僕が彼女を連れて行くんだ。コール音がなるたびに僕は内面に湧き上がる熱を感じて瞬きをした。もう何が起きても僕は驚かない。1日1日をとにかく乗り越えるんだ。かつて父が僕にそうしてくれたように。僕は思った。父にはどうかまた僕を励ませるまでに強くなって欲しかった。父のあの嘆きを埋め合わせるにはとにかく毎日をやりすごして行くしかない。そんなことを考えた。