シュガーポット

もう5、6年前の映画なんだけど、「逃亡くそたわけ」っていう映画が公開された。THEピーズっていう、1990年ごろのバカロックバンドが音楽を担当してた。 ……脳みそがジャマだ。 半分でいい。 たしかそんな歌詞だった。 映画のエンディングで、坂道の上の方に、主人公の脳内人物が横並びに並んで立っていた。 小さな女の子、日本兵、長い髪の女性、アフリカ系の外人の男性、やたら恰幅のいいおっさん。 記憶の侵入は突然にやってくる。 映画館で私は号泣したことを覚えている。 今夜の脳内BGMはこのTHEピーズの「脳みそ」。 ほんの一ヶ月前の夜の、やっぱりこんななかなか寝付けない布団の中で、 不意にシュガーポットのある風景が現れた。シュガーポットが頭から離れない。その記憶風景は何日も続いた。そして記憶は徐々に鮮明に一層具体的になってゆき、それは私の心的外傷の象徴であることが判明していった。 小学生の頃か。自宅で母は喫茶店をやっていた。 夜も更けたころ、私はテーブルのシュガーポットを集めて、ひとつひとつを磨いた。眠気と疲労。 すべてのシュガーポットを磨き終えるとき、解離は起こった。……すべてを思い出したとは今も言い切ることは出来ない。 真実に向き合うやり方は人それぞれなのだろう。 飽きるほど思い出すのがいい、という治療者もいるかもしれない。そんな文献を読んだこともあった。語ることが、とにかく吐き出すことが大切というセラピストにも実際にあったこともある。 私の場合それは激しい危機状態だった。 記憶は飛び、破壊衝動を制御することは不可能に思えた。長くなるから全部は書けないんだけど、 あの手この手で私は冷静さを少しずつ取り戻した。まだしていないことで、有効と思える方法に取り組み始める日々が始まる。 出来過ぎた話のようだが、私の脳内リゾートにはカフェがある。そしてシュガーポットもそこにある。 このブロクのIDにもなっているフライデーが懸命にシュガーポットを磨いているのだ。これをかきながら今も涙がこぼれるのを止められない。 ちなみにフライデーはほんの少年だ。 マリが消えたとき、私はある危機感にさいなまれた。いつか私の脳内の心の友や残酷だがすでに力を失っている猛獣のような隣人たちが、消えるときが来るのかもしれない。 とても許容出来そうにない。徐々にやってくるのだろうか。私はそれに耐えられるのかな? シュガーポットは私の崩壊でもあり、私の中枢だ。 眠らなきゃ。 おやすみなさい。フライデー。 もう泣かないで。 次のステージに進むよ。 一緒に行けるといいな。