連載小説 小熊リーグ⑫

自宅マンションに戻って来た僕は窓を全部開けてルンバのスイッチを入れると、ベッドカバーやタオル類を洗濯機に放り込み、流しのマグと皿を洗った。野菜室のパン種を捨てる。ゴミ袋に冷蔵庫のものを全てぶち込んで中を空にすると汚れを丁寧に拭き取った。

溜まっている郵便物に目を通し机の上をこざっぱりと片付けると、すっかり枯れている出窓のアジアンタムの鉢をビニール袋で包んだ。留守電が点滅している電話機の電話線を引き抜いた。

夕方までには乾くだろうか。シーツ類をベランダに干し、ルンバにひとこと声をかけてから部屋を出た。

いつものカフェはオープンテラスになっていた。僕はカウンターに腰掛けた。

「休みかい」

「うん。もうずっとね。病院辞めたんだ。もうランチ終わってるよね」

時計を見るともう3時を過ぎていた。マスターはじゃあ何か作ろうかと言った。僕は視線を感じた。カウンターの端で何かが僕を見ている。僕は立ち上がり近寄ってみた。それは手の中に入るほどの白木の塊だった。コロンとしている。小さな眼のようなものが付いている。テラス席のサングラスの女性が僕の方を見た。女性は僕を一瞥して退屈そうに通りをまた眺めた。

マスターが料理を持って来てくれた。山盛りの生野菜に粉チーズが振りかけられたサラダ、丸いパン、赤いスープ。口の中ですぐに砕けるほど柔らかく煮えた豆のスープがとても美味しかった。食べきるころに飲み物が運ばれてきた。デザインカプチーノだった。

「今日は上手くいった。わかる?犬だよ犬」僕はカプチーノを見た。茶色のぐるぐる模様が浮かんでいた。じっと見ているとくしゃっとなったおじさんの泣き顔のように見えなくもなかった。僕はとても悲しい気持ちになった。

「病気退職なんだ。もう医者は辞める」

「そうか」

「ひと月ほど入院してね」僕はおじさん柄のカプチーノを啜った。カプチーノは飲み口がまろやかでほんのりと甘味がありびっくりするほど美味しかった。マスターが僕を見て頷いた。カプチーノを飲みながら僕はカウンターの端に置かれた奇妙なオブジェをもう一度見た。するとマスターがそれを僕のすぐそばに置いてくれた。

「ハツリって言うらしい。これ熊なんだよ。ここが顔でここが背中。ほら、こう」

「あー!」僕は大声で叫んだ。「これ熊だあ」騒いだのはウィルだった。

「はじめまして」僕の隣に先ほどのテラス席のサングラスの女性が立っていた。女性は小柄だった。だぼだぼのキャメルのワークパンツに白いTシャツ。女性はカッコ良くサングラスを外した。すると思いがけず子どものような顔が現れた。

「わたくしこういうものです」女性が僕に名刺を差し出した。ショッキングピンクに黒いクマのイラストがあり”NoBear NoLife”とある。その下に谷口咲子と女性の名前があった。

「‥‥どうも。あの、僕は名刺が無いんです。あの、仕事辞めたんで‥‥」

「ゴメン全部聞こえたわ。それより、どう?このハツリ。いいでしょ。持ってみて、ほら、ほら」女性は僕の手に木のクマを乗せた。見ると女性の肩にウィルが手をかけている。一人前に気取ってポーズを決めたウィルが可笑しくて僕は思わず笑った。僕の笑顔を見た女性もニコリと笑った。