いちょう並木のセレナーデ

blue。青。蒼い。碧い。blue。もうひとつの意味は憂鬱。小沢健二の「いちょう並木のセレナーデ」は不思議な歌詞だ。blueになる準備は出来ていると歌う。曲中温かい拍手に支えられ、歌い手は哀しみを受け止める心づもりがあるということを優しく穏やかに、しかし確固として宣言する。

 

 

 

 

DIDの治療に除反応がある。もちろん除反応で解き放たれる感情は哀しみだけではない。心は多面体だ。

 

 

 

 

これまで堰き止められていた。だけどそんなに計算ずくでもない。海の水はしょっぱいだけじゃない。ひっきりなしに寄せる波は挙げたり引いたり、次から次へと影響を及ぼしあってうねっている。感情はエネルギーなのだ。涙もけして無駄ではない。

 

 

 

 

先日私は熱を出して寝込んだ。

 

 

 

 

うつらうつらしながら繰り返し考える。始発で塩尻へ出る。諏訪湖は凍っているだろう。そして新宿行きに乗る。ホームで乗り継ぎ日付けが変わるまでとにかく東へ向かうのだ。

 

 

 

 

 

 

夜が来てようやく広い場所へ出る。誰もいない砂浜を歩く。泡立って白い波頭。真冬の太平洋。素足で波間を沖へとすすむ。沈んでいくだろう。私はようやく肩の荷を降ろす。肩の荷って?そんなものあるの?大袈裟だな。

 

 

 

 

たぶんそうだな。私はひとりになりたいだけなのだ。そうして海の波にゆったりと包まれたいだけなのだ。

 

 

 

 

若かった私はどうしようもなくイタリアに住みたかった。めちゃくちゃに憧れた。トリッパの煮込み。叔母が語るのだ。イタリアの街角の何処か。屋台でトリッパの煮込みをパンに挟んでもらうの。辛いソースをかけてね。柔らかいよ。美味しいよ。

 

 

 

 

私は日々の重労働から逃げ出したかったのだろう。犬のようにこき使われ、豚のように蔑まれ、とにかく疲れきっていた。

 

 

 

 

気持ちを吐き出すことが下手だったのだ。吐き出すってなんだ。気持ちってなんだ。そんな余裕すらなかった。

 

 

 

 

 

トリッパが頭から離れない。トリッパの探索。そして結構近場にトリッパが食べられる店を見つけた。早速出掛けた。残念ながらトリッパは夜限定メニューだった。仕方なくパニーニのランチを注文。カップになみなみの珈琲が運ばれて来た。

 

 

 

美味しい。酸味があってキレもある。味わいが永く続く。珈琲とは奇妙な飲み物だ。褐色調の色を味わうのだ。

 

 

 

 

食後にエスプレッソをオーダーする。砂糖は二杯半入れて下さいねと穏やかな笑顔のバリスタがカウンターから出て来て直々にアドバイスをしてくれた。やってみる。おお。過激だ。何かが脳でスパークする。まるでレーザービームを飲んでいるみたい。癖になりそうだなこりゃ。

 

 

 

 

私の中のイタリアと、現在のイタリアの街はおそらく別物だろう。結局叔母もまた私にとっては遠く隔たった、酷く冷たい肌触りの孤高の人だった。人間は独りである。叔母は間違った独りよがりの誇りに満ちていた。見えない敵と闘い続ける。そんな生き方は虚しい。私は違うよ。私は生きるよ。生きることをやめないよ。

 

 

 

 

 

たぶんこの次あのお店でトリッパを食べたら除反応はほぼ完了だ。イタリアは去るだろう。あれは余りに若く経験不足の私が描いた妄想の桃源郷に過ぎない。きっとこの世界中のどこを探してもそんな場所などありはしない。

 

 

 

 

だけど感じのいいカフェだった。

 

 

 

私は叔母を許したい。

 

 

 

 

だから時々またあのカフェで珈琲を飲もうと思う。