「エトロフの青いトマト」山と渓谷社

図書館が好きだ。最近隣の市の図書館へも行く。

隣の市の図書館は蔵書はそれほど多くはないが時々掘り出し物がある。旅行記、映画論、動物書などは充実していて毎回本棚を見終えないうちに帰宅する。

一方自分の住んでる市の図書館は蔵書も多く、新刊など(滅多に借りられないが)もちゃんと入れている。料理本などはすごく揃っているが私は料理研究家の料理本が嫌いだ。性分でないのだ。小洒落たイタリアン、南仏プロバンス料理、チョコやケーキに特化した小綺麗なデザート類。まず作らない。

まだ若い頃、年端もいかない私は子どもを産んだ。不器用な家庭料理はやっつけ仕事以外のなにものでもない。

娘たちが思春期になり料理に興味を持ち始めたころわたしは焦った。私は私の独自のレシピ、いわゆるお袋の味的な何かを娘たちに踏襲させる気がまるでなかった。娘たちには是非ともそれぞれ個々の感性で食べたいものを模索して欲しかった。そんな願いがあった。

年長の長女は若干19歳であったがいち早くパスタの達人となった。長女は二十歳で嫁いで行った。

次女は食物栄養科の大学を出、彼女なりの料理へのアプローチを始めた。

三女は今だに料理には関心がないが、料理本が大好物だ。そして現役のシェフと結婚し、毎日美味しいものを食べている。

私にとって料理とは食事そのものである。誰かが食べ、美味しいと言う時、その料理を何処で食べているのか、そしてどんな時間にどんな場所で誰と一緒に食べているのか、それこそが重要なのだ。

その食事で何を考え、それを食べ終わり何処へ行くのか。考えるきっかけは小説だったり散文だったりする。この書き手は真実味があるな、と確信すると芋づる式に読む。レシピは文中に登場したりすることも時折はあるがほとんど書かれていないことが多い。

そうして果てしない探索が始まる。

探索は楽しい。まずはそれが食べられそうなお店へ出向く。遠方まで出掛けて行って購入してくることもある。まあ出来る範囲で、である。完璧に、失敗なく、名だたる有名料理を完成させたと自慢気な逸品には感動しない。何事も未満で構わない。土地の空気感と人々の喧騒。料理の味わいほど個人差の現れるものはないからだ。万人受けする一皿ほどつまらないものはない。

「エトロフの青いトマト」。若かりし日に私は図書館でこれを読み心を震わせるほど感動した。その日のうちに出版社宛に手紙を書いた。一体何を書いたのだろうか。驚くべきことに後日作者からの丁寧な返事が届いた。その日からちょっとした文通が始まった。文通は数年で途絶えたが私は自分より遥かに年長で経験豊富な作家から時々やってくる手紙を受け取っては多いに啓発を受け、励ましを頂いた。本当に感謝している。

青いトマトは決して美味しくはない。それでも北方領土の痩せた土地で収穫された固いトマトの味は様々な想いや願いを含んでいてそれは美味しいとか不味いとかではない。わたしはそういう味を知らないで育ったのではないだろうか。それとも実はそういう味に囲まれて育ったのだろうか。

1度でいい。あのエトロフの青いトマトを食べたかった。

先週隣の市の図書館の駐車場のロータリーで閉架図書が何箱も出されていた。ご自由にどうぞ、とある。

その中に「エトロフの青いトマト」はあった。

今はどうしているのだろうか。

また手紙を書いてみようかな。