長いあいだ夏至のことを昼と夜とが同じ長さの日だと勘違いしていた。
わたしは夏至のころの湿気って冷たい早朝の空気が今でも苦手である。幼いころ、わたしは季節ごとに滞在する父の親友に早朝連れ出されたものだ。その男は可哀想な狂ったペドフィリアの浮浪者だったが哀しいほど人にやさしく心底憐れな人であった。
夏至の月見草たちは日没後盛んに花を咲かせている。幼い頃この花を見たことはなかった。わたしが月見草と呼んでいるのは大待宵草だが、わたしが明け方に河原ではじめてこの黄色い花を見たときはわたしにはもう夫がいて子どももいた。
ある日夫も子どもたちも寝静まったのを確認し、わたしは真夜中過ぎひとりで家を出た。川までの下り坂をゆっくりと歩いた。
あの日、わたしが幼い子どもだったころ川沿いに大きな一本の桑の木があった。その桑の木が黒い甘い実を付けるのは夏近くなったころだった。実を付ける前の桑の木がその葉を風に揺すってはざわざわと鳴り響く音がする。
若いわたしが河原を歩いている。わたしは35歳。わたしはわたしが居ては迷惑が掛かる、わたしは逝きますとひっそりと入水自殺をした遊女の話を思い出していた。遊女は分不相応な恋をした。遊女の恋は成就した。無事請け戻されて幸せに生きていたはずだった。
彼女の入水自殺を彼女の夫は知ることはなかった。その日彼女と伴にその家に代々伝わる高価な鑑が消えていた。憐れな旦那たちはあいつは鑑を持ち逃げした、素行のわるいどうしようもない女であったと結論して話は終わる。
遊女は誰にも何も打ち明けない。そして鑑を持ち出したのは夫や家のものを困らせようとしてではない。彼女はその鑑が好きだった。その家に入り、その家の者となり、その鑑を所有し、日々眺めるのが好きだったのだ。それでもう充分。彼女は人生を終えると決めたが、美しいその鑑とだけは別れたくなかったのだ。
この話が哀しいのはたったひとつだ。この世でたったひとりの彼女が居なくなったことではなく、なによりも家宝の鑑が失われたことに夫がまず狼狽えたことだった。女の存在とはなんと軽い。俗人の残酷さ。売れば金になるあの家宝をあいつは持って逃げた、あいつはやるだろうな、なにしろ遊女上がりだ。
わたしもまた彼女と同じ入水自殺を思いついたその夜の夜半過ぎ河原を歩きながらふと気づいたのだ。わたしは歩き終えるとそのことに納得しては家に帰った。そして何事もなかったかのように朝ご飯の支度をはじめた。
子どもたちが起きてきた。
おはよう、おはよう〜。これは何?月見草だよ、夜に咲くんだよ。子どもたちはわたしがたおってきた月見草を見て喜んだ。
わたしに家宝の鑑が無くて幸いだった。わたしは夫にこのことを説明しよう。わかってもらえるか、わかってもらえないか。わかってもらえると良いが、とでも言いたげに月見草がみるみるその花を閉じた。