連載小説 小熊リーグ⑥

後でわかったことだが僕の入院した病院は僕の実家のクリニックと勤務先の精神病院からだいぶ離れた場所に建つ精神病院であった。その病院には特別差額病棟と呼ばれる軽症患者を対象とした完全個室スタイルの病棟があり僕はそこに居た。

僕の主治医は白川という老年期に差し掛かった男性医師だった。

白川医師は人当たりが良い笑顔を絶やさない一見すると腰の低そうな雰囲気を醸し出していたが僕にはどうしてもそれが診察室で患者に対する時にだけ見せる偽りの人格であるようにしか見えなかった。

僕はそのことを説明した。

白川医師は終始にこやかに何故そんなことを思うのか話せと言うがむしろどうしてと尋ねられることが解せない、これは自分の感覚であるのだから理由などはないと僕は言った。

では退院したいと思うかと主治医は聞いた。

僕は黙った。緊急入院してから一週間が過ぎたが僕が今実家で療養するなどということは無理だ。医師免許を取得後、僕が父のクリニックを手伝うことを拒んだのには様々な理由があるが、それは僕の方の理由ではなく、むしろ父の側の都合だった。小さな諍いがあり一年余り父には会っていなかった。

数日前光盛医師は病床の僕を訪ねてきて父親に会いたいか、正直なところどうだと言ったが僕は僕で父が僕をどう思っているのかがとても不安だった。だから会いたくないと答えた。おいどうしたんだ大丈夫かと父が現れるのではないかという懸念がそうやって消えてからはっきりと実家へ戻ることをしないと決め、それをその時に光盛医師にだけは何と無く話してあった。

退院するということはあのマンションでの独り暮らしに戻るということだ。

僕が何か言おうとすると突然白川医師は僕の方を見ないで不躾に死にたいと思うかと言った。するとその瞬間だった。僕の脳内で微かな化学反応のようなものが起こった。

さっきまで遠くから僕を僅かに捉えていただけの望遠レンズが目眩を起こしそうな速さでクローズし瞬く間にここから逃げられない‥‥というような、はたまた何十年も封鎖されていた広場の門が音も無く開き、見渡す限りの廃墟に招き入れられあからさまに戸惑うような。

僕のこうした強い不安がこの診察室の関心事ではないのだということは白川医師が矢継ぎ早食事は摂れるか、睡眠の質はどうだと尋ねてきたことでわかった。

こんなに大人しいのは注射のせいかね、と目の前の僕の主治医らしき人が無害そうに微笑んだ時僕は喉の奥が咄嗟に苦しくなった。深呼吸して目を閉じた。

そこにはクマが視えた。

待て、黙れ、ウィル。ウィルが騒ぎ始めていた。

『偽善者め』

ウィルの言葉が静かな診察室の床にぽつんと落ちた。

主治医らしき人は身じろぎひとつしないでカルテを書いている。

後ろのドアが開いて僕は部屋へと返された。