連載小説 小熊リーグ㉒

入院してひと月が経った。僕の脳内には少しずつ変化が生じていた。それはまるで朝が近い時間の空の色のように僕を惹きつけて離さなかった。待ち構えていた何かが薄闇に現れる。断片。その音、その匂い。それは剥がれ落ちていく。スクリーンに隠されていた秘密だった。僕は夢中になった。

白川という僕の主治医は日に日に総量も強さも増大していく僕の幻覚を薬物治療無効と判断した。もちろん薬物誘引性の幻覚でないとは言い切れないがそうであるなら尚更薬物治療を中断することには意義があった。

僕には殊更退院を早める事情はない。白川医師は僕が飲んでいた大量の精神薬を大胆に外した。

白川医師と僕は様々な話をするようになった。精神科医同志として、またクライアントとセラピストとして。窓硝子を破った日の戸板の幻覚を白川医師は象徴的だが重要な幻覚だと言った。僕は戸板を含めて見えるもの全てとその幻覚の引き起こす空間全体の気配にいつまでも怖気づいたままだった。

白川医師は僕に筆記療法を提案した。脳裏に映る全てを書くのだ。色、かたち、匂い、音。ノートパソコンで書き綴ることを勧めた。はじめはなかなか上手くは書けない。ある時白川医師は筆記療法はポジティブメモリーからエンターだという論文をコピーして僕に手渡した。

それがきっかけとなった。僕は書き始めた。脳内に棲む熊のウィルとウィルドッグのこと。発病した時に担当していた彼女のこと。診察当時彼女が自身の辛い過去を受け入れ難くしていた訳が今の僕にはよくわかる。ただ怖気てしまうのだ。何かを思い出すこと、そしてそれらを白日の下に晒すことなどあってはならない。

一旦書きはしてもそれは嘘のようにも思えるのだ。書いたものを破り捨てたい衝動に駆られる時もあった。それでもこんなことは書きたくはないのだと一行書くならば彼女が寄り添って微笑んだ。

拒絶。

僕は苦笑した。僕たちは拒絶で繋がっていた。

幻覚の戸板は徐々に開く。僕は見えるものをひとつひとつ書いた。診察の前日には書き溜めたノートを白川医師のアドレスに転送した。診察までに白川医師はそれを全部読んでいる。

僕たちの治療システムは続いた。ある時僕は早朝大声を上げ部屋を飛び出して数人の看護師等に押さえつけられた。僕はものすごい力で看護師等をはねつけるとまっしぐらに走って行って防火扉に激突した。顔面を強打して転倒。脳しんとうを起こし気を失った。

またある時は真夜中にナースステーションへ侵入し小さな子どものように泣き出した。泣きじゃくる僕を若い女性の看護師が抱きしめているのを巡回終わりの看護師たちが発見して大騒ぎになった。翌日からその若い女性看護師は病棟を外されたが僕にはその夜の記憶が全くなかった。

白川医師は看護師長から僕の薬物治療の再開を検討して欲しいと打診されたが首を左右に振って黙るばかりだった。看護師長は痩せた年配の女看護師だった。彼女はそれは恐ろしい形相で僕を睨みつけるのだ。僕はむしろこの女看護師に安定剤を飲ませた方が良いと思うのだ。しかしそんな考えはすぐに消える。何故なら僕にはよくわかるのだ。彼女も必死なのだ。病院内で騒ぎが起きるのは誰にとってもストレスなのだ。

早朝だったり、真夜中だったり、僕の発作は止まない。病棟近くの寮に住む新海氏が呼ばれる時もあった。朦朧としていたり号泣して暴れていたりする僕の側で彼は僕の名前を繰り返し呼ぶ。長い時間が過ぎる。新海氏の声が聞こえる。僕は体の力が抜けて行った。呼吸は鎮まっていった。

いつしか僕は再び個室に戻された。そして扉は外から鍵が掛けられた。

これらの発作が統合失調症のものなのかあるいは解離性同一性障害なのか、それとも単純な単一事件によるPTSDであるものなのか、僕が尋ねるとそれを判断するのは時期尚早だと白川医師は言った。

白川医師は幾つかの僕の幻覚の景色を疑わないで信じた。悲しく辛い過去の事実を受け入れ難くしている僕にそれは君の大切な記憶であり、君の個人情報であるのだからと励ました。

白川医師は僕の過去を全く疑わなかった。あたかもそこに居合わせたかのように‥‥。

冬になった。その日は朝から雪が降った。

ぼんやりと雪を眺めていた。ドアをノックする音がする。僕はどうぞと言ってベッドから上半身を起こした。入って来たのは父だった。少し遅れて光盛医師が部屋に入り後ろ手でドアをバタンと閉めた。

僕は咄嗟に不穏な気持ちを抑えられないでその場から逃げようとした。ドアへと駆け出すとそこには白川医師がいて彼も部屋に入り静かにドアを閉めた。

「新海君を呼ぶ方がいいか」僕の後ろで父が言った。

「君は誤解してる」光盛医師が泣いているような声で言った。

僕は白川医師を見た。「ノートを読んだよ」

僕は振り返り光盛医師の胸ぐらを掴むと勢い彼を病室の白い壁にぐいと押し付けた。強く握った拳が光盛医師の顎に食い込む。彼はなすがまま力無くだらりとしていた。「母を追い詰めて殺したのはあなただ」僕は震えながら耳元で囁いた。

ふと僕は視線を感じて窓を振り返った。

ベッドの脇に一人の女性が立っていた。

「お母さん」僕は絶叫する。光盛医師が床に崩れ落ち声を上げて泣き出した。