東京書籍 中村庸夫(つねお)「海の名前」

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今日からランニング。もうこうなったら走ってやる。

脳のお薬は飲んでも効かなかった。悲しい気持ち、虚しい気持ち。誰かがわたしを諭す声。左後頭部のひどい頭痛。しかしながら薬をのんでいたおかげで先週はとにかく寝た。毎晩7〜8時間は眠れていたし、週末は昼夜なく1日平均12時間は眠った。

家の中が埃っぽい。流しの茶碗は洗わずに積まれたままだ。入院したと思えば楽なものだと今朝夫が洗濯をしてくれた。薬の副作用か酷い低血圧状態でとにかくだるい。息するので精一杯。何もしたくない。まあ自殺をする気も起こらないからそこは良いのだろう。

歩くのがやっとというカラダで果たして走れるのかと思いきや走り出してみるとそこは素直にスィッチが入り2、3キロで帰ってこようと走り始めたが走っているうちになんとも楽しくなりコースを変えた。

家から10分ほど東へ山を目指して走ると東海自然歩道へ出る。ここからはそうであるとの標示を入ると「猪に注意」「猿に注意」の立て看板。少し勾配をいったところには「蛇に注意」。蛇はもう冬眠したのかな。

あんなに辛かった心とカラダが山の中では別人のようだ。今何曲目。iPhoneも時計もないのでウォークマンの曲を数える。これで5曲目。一曲4分として20分が経過したことになる。

登ったり下ったり。これは足にくる。大腿筋がキツいよ。踏み切る足を左右均等にピョンピョンとやる。顔が熱い。汗が背中を滴り落ちる。

もう無理の地点で「県道へ」の矢印。助かった。県道へ出る。アルバムは丁度一周。1時間弱を走ったことになる。帰ろう。わたしは山を抜け明るい陽が照っている場所に立った。山へ入ったときに外したサングラスを再びかけると自然歩道を西へと移動した分だけ自宅方面へ。もう昼近い県道をわたしは戻った。

帰宅。シャワーを浴びウェアーを洗濯して干しライ麦パンを齧りながらソファで読みかけの本をぱらぱら。「近世封建交通史の構造的研究」。先週から助郷を調べている。助郷はなぜ必要か。助郷はなぜ悪者か。

数行読んだところでばたんと寝た。夕べあんなに夜睡眠を取ったというのに。深い睡眠であった。ところが目が覚めてみると五分しか経っていないのだ。DIDの睡眠は本当に不思議である。

そののちは江戸の宿場のことは忘れることにした。

「海の名前」という写真集を観る。

ああ懐かしい。沖縄の青い海。

花束&ペヤング

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出来事の記録。昨日来客。2人の友人が夕ご飯に来た。2人は兄弟。弟は20代美身でイケメンだが兄は30代背が低く人の良さを醸し出している。よくある組み合わせ。久しぶりだなあヒロシ。出鱈目の名前で夫が弟の方をいじめる。アンタおっちゃんか。

わたしはまたコストコトルティーヤを買った。今夜はトルティーヤ消費だー。ワカモレサルサ、チーズ、タコスミート、サワークリームなど用意する。

この背の低い兄はトルティーヤに様々な具材を包むのが全く上手い。少しずつ少しずつ。彼が包んだトルティーヤはなんか食べやすいのだ。気がつけば兄貴は全員の分を包んでくれている。

美味しいね。美味しいね。つぎ俺ね。よし。兄は弟のためにトルティーヤを包む。ああ良い景色だなー。

なんか食べるもん作ろうか、と兄貴は台所で持参したグリーンカレーペーストを取り出す。おいおい、あたしそんなこともあろうかと作ったのさ。わたしは具の無いグリーンカレー(まあスープですかね)を鍋にいっぱい作ったのだ。

辛いよ。白飯に掛けて食べようか。わたしは土鍋の炊きたてご飯を出した。パクチーはある、めっちゃある。最近のわたしは夢のパクチーフリーで過ごしておるんじゃ。

辛い辛いとグリーンカレーを食べていたら兄貴はやおら花束を取り出した。何?花束は次女へのサプライズプレゼントだった。次女は嬉しそう。満面の笑顔。そりゃ嬉しいさ。女は花束に弱い。

わたし知ってんだよね。あいつは人生経験豊富。花束なんかはあちこちの女にちょいちょい贈ってんだ。でもそれは今は言わないけどな。うん。

わたしには何も無いの?兄貴はわたしにペヤングをくれた。ふと見ると満腹のイケメンのヒロシがソファでむにゃむにゃと眠りこけていた。

中山道〜草津宿の巻

https://www.instagram.com/p/BLNmEvih_aB/

草津宿

近江国栗太郡(滋賀県草津市)

海抜95m

本陣2 脇本陣4 旅篭屋132(最盛期)

草津という地名でまず連想するのは群馬県草津温泉だが中山道草津宿滋賀県の琵琶湖の下、南東にある。JR草津駅前の商店街を西へ進むと道なりに本陣がある。

草津宿は今は人気がない。本陣は敷地は広大で増改築を繰り返した建物は絢爛豪華であったがガイドさんは居ないようだった。日曜日などは違うのだろうか。

江戸時代のものと思われる「和紙に筆書き」の本陣平面図の展示。じっと見入る。フリーハンド風の図面が優しい。江戸時代関連の建物は古ければ古いほど価値があるとされている。この草津宿本陣の建物は最近になりそれほど古くないことが判明した。

重要文化財は入館料が取れるようであるが草津宿本陣はそうではない。国指定文化財。それでも入館料は必要であった。草津宿本陣は2つだが現存するのは片方のみ。脇本陣はひとつも残っていない。

草津宿脇本陣は永代世襲制ではなく、4つの脇本陣は申告制で、その年に繁栄し行状を善しとされた家屋敷の主が立候補をして任命されて務めるというシステムだった。

なんとなくの流れで本陣巡りふたつ目にして草津宿へ来てしまったが今思えば妻籠宿へ先に行っておいてよかった。妻籠宿では絣のモンペ姿でくるくるとよく動く若い女性が快活に本陣建物内部を説明してくれた。

上段の間に回りには幅一間の廊下がありお付きの侍が夜昼なく陣取って警護をしたこと。本陣内の雪隠は広々としており排泄物を調べて殿様の健康状態をチェックする医師が旅に同行したこと。土間を挟んだ向こう側は本陣世帯の住まいとなっていること。

草津宿本陣内を歩きつつ妻籠宿で聞いた流暢で何気ない説明の詳細が脳内で再生された。妻籠宿は写真取り放題であったが草津宿は撮影は禁止。禁止マークのない土間で一枚撮る。帰りに売店で図録を買った。1冊800円。安いのかな、高いのかな。

本陣はまだ妻籠宿しか知らない。妻籠宿本陣のことを思うと草津宿本陣はどこかしらセレブな高級会員制旅館の佇まい。妻籠宿では無かった「本陣賄」と呼ばれる夕食メニューのサンプルも展示されていた。

助郷と呼ばれる農民衆を圧迫した人馬勤めなど草津宿にはダークサイドも多い。最盛期には飯盛女は60人もいてきっちりと組織され保護されていた。もちろん非合法であった。

ところで草津宿中山道なのか東海道なのかという議論は今でもされている。中山道よりも一年先に東海道として制定されたので東海道だとする説ともともとの中山道(東山道)をそっくりそのまま流用したので道としては中山道であるという説。

織田信長豊臣秀吉草津を欲しがった。古来草津は伊勢道へと通じる分岐でもあった。西は琵琶湖水道の終点大津へと通じていた。

草津宿内の旅篭屋同士の客引き合戦が過ぎて度々お咎めがあった。飯盛女たちは小銭欲しさに派手な見繕いで宿場町を出ては近隣の村々で若い男子を誘惑し痴情事件を起こしたという。

かつては活気溢れた草津宿を今再び訪ねてみたい。

ガイドさん居ないのかなあ〜

エレファントカシマシ/悲しみの果て

https://www.instagram.com/p/BMNSVxchhOv/

http://youtu.be/0WZu7L7Hjds

https://youtu.be/MNWmJt4oe3Y

『悲しみの果てに何があるのなんて 誰も知らない見たこともない』

エレファントカシマシの彼はわたしの未完の小説の主人公の精神科医のモデルである。小説の中で主人公の男性は売春婦の私生児として生まれ、生後間も無い期間のネグレクトののち施設で数年を過ごした。

彼の父親は主人公の母である女が売春をしたとして収監されてのちDIDであるとして医療保護入院をしたときの主治医の大学の後輩に当たる。父親はまだ若くインターンであった。しかしながら将来を有望視されていたれっきとした精神科医であった。

母親はまだ若かった。治療が進むにつれ彼女の心の闇は薄らいでいったが同時に彼女の心の崩壊も様々な治療を持ってしても誰にも止めることは出来なかった。

何故DIDを治療すると患者は生き辛くなってしまうのだろうか。良識を取り戻した彼女は施設で暮らす幼い我が子を伴い心中を試みるも駆けつけた男たちによって心中計画は頓挫する。

「死なせてくれ。この子も、このわたしも、この社会に居たところでなにひとつ有用なものを生み出しはしない」。その日に彼女の述べた正論を覆すことを男たちは出来ない。何故なら彼らは皆精神科医だったからである。

深く、取り戻せないほどに深く心を病んだ人間が病気の進行と共にいかに人格を崩壊させてゆくのかだけを当時の彼らは学んでいたのだ。”精神分裂病”という病名の持つ圧倒的な現実を女は存分に知っていたし、彼らもまたそうだった。

しかし1人の男が立ち上がった。

それが主人公を施設から養子として引き取り育ての親となる。この男は極論で満ちている。崇高な理想を持ち、子育てをしながらも施設で闘病中の女を金銭的また物質的に何十年も支えたのだ。彼にあるのはひとつの単純な思想であった。精神分裂病は治る。それだけであった。

女が施設内で亡くなった日、彼は葬式で我が子に全てを打ち明けるかわりに1人の男を引き合わせた。その男とは彼の長年の友人であり、幼くして養子として我が子となった主人公の実の父親であった。

主人公の苦悩はこの時からはじまる。

わたしの小説はここから書き始めている。設定は主人公が若き精神科医として1人の女性のDID患者を診ている場面だった。

この日既に主人公は悲しみの果てにいた。悲しみの果てには何があるんだろう。

『悲しみの果ては素晴らしい日々を送っていこうぜ』

エレファントカシマシのこの歌が大好きだ。悲しみに果てがあること、悲しみの果てを誰かと2人で、いや3人、4人で共に「ここが悲しみの果てだよ」と共有する場面を書きたかった。

わたしもまた極論に満ちている。先週の診察で逃げてはダメだと言ったわたしの現実の主治医もまた極論に満ちている。

わたしはこれまで逃げて逃げて逃げ続けてきた。そうしなければ生きられなかった。しかし今は悲しみの果てで悲しみを一緒に見てくれる沢山の脳内の友人たちがいる。わたしの悲しみとは何か。全ては過ぎ去った過去である。わたしは今とても幸せなのだ。

脳内の友人たちとの会話は健常者には幻覚であり妄想である。悲しみの果てにある素晴らしい日々とは、実際には濃い闇に包まれた大いなる独話に過ぎないのだろう。

主治医とはいえわたしの脳内を見ることは出来ないのである。

例えば互いの脳内を1匹の熊が行ったり来たりをするというファンタジーでもない限りは。

Wait a minute, wait a minute. You ain't heard nothin' yet! お楽しみはこれからだ

https://www.instagram.com/p/BLtqKJEhtyA/

https://youtu.be/qHqz_AeiyEg

https://youtu.be/SBWhh2F2x5I

https://youtu.be/EHD1JHgLQN0

https://youtu.be/QRiXpTEmo3s

https://youtu.be/Djd1XfwDAQs

(ブルースカイ/1927年映画「ジャズシンガー」)

わたしは変わってゆきたい

そうして今まで見たことも聞いたこともない

新しいわたしに会ってみたい

53年も死なずに生きていた

わたしのブラックボックス

おいこらわたしのブラックボックスの管理人

よく聞けよ

このまま予定調和でいくと思うな

昨日も今日もまるで奇跡

ポンコツ ガラクタの躰が空を飛ぶこともある

さて

お楽しみはこれからだ

診察日(2016年10月)

沖縄から帰ってミスチルの「深海」をずっと聴いている。沖縄でそれで海で海繋がりってことでもない。「深海」というアルバムには結構好きな曲が何曲も入っている。

もう1年以上診察では何処か外国へ引っ越したいという話ばかりをしている。ここんところトルコへ行きたい。馬鹿じゃねえの。わたしはまるで幼稚園児だ。

どうでもいいけど呼び捨てはやめろ。わたしはつい、脳内でいつもそうしているように主治医の苗字を呼び捨てにしてしまった。別にいいじゃん、これからそうしようよ。これは正真正銘の開き直り。

漢方薬は効いたか。主治医が尋ねた。効いてる効いてる。夕方からの頭痛がなくなった。女性ホルモンの何かが動いたんかな、あたし本物のおじさんになっていくんかな。

もうずっと、沖縄へ行くかなり前から話題にしたかったことを話す。大切なことはiPhoneのメモに留める。なぎらとはもう長い付き合いで価値観も近く討議は白熱し診察は1時間を超えた。

次回予約をしてまたねとわたしは主治医の名を言うと主治医は呼び捨てかよと笑いわたしもまた笑った。憂鬱を瞬時に払拭する高度なスキル。今は生きて出来れば笑うこと。

コストコで牛豚鶏を購入。海老とソーセージ。チーズとバター。帰宅後は堪え難い疲労で即就寝した。朝が来て肉の塊を次々と切り分け冷凍した。

ミスチル「手紙」「ゆりかごのある丘から」を聴き、その続きでスピッツ「グリーン」を聴いたら涙がこぼれた。

これって合わせ技なんだなあ〜

沖縄海遊び④

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沖縄の友人は今年サップをはじめた。サップはSUP。スタンドアップパドルである。長めのサーフボードをオールで漕いでいろんなことをする。次女はサップってあたしプロレスラー・ボブサップの超キツいフィットネスプログラムだと思っていたと真顔で言った。

もうそろそろサップをやろうよ、明日はサップだよという声が我々の中から生じてきていた。その日のランチはキングタコスの予定だったが我々はキングタコスのテイクアウト窓口の人だかりで順番を待つことすら疎ましいほどなのだ。もうコンビニにしようよ。我々は一刻も早く海へ行きたい。

橋で離島へ渡る。島のローソンでおにぎりを買った。友人は今日はテントを張るというので次女とわたしはノンアルを買う。甘いパンなども買う。着く頃にポテトチップスも買えばよかったなと思っていたらちゃんと友人が買い込んでくれていた。

連日長丁場の海遊びがじわじわと筋肉と脳とに疲労をもたらしていた。三女は今日は海へは入らないよとテントでくつろいでいた。テントと言っても四方へ風が抜けるタープのようなもの。浜辺に優しく座り茶色い長い髪を風になびかせる三女はまるで外人さんみたいだ。

数日前三女は満潮近い海面から岩場へ上がる時にバランスを崩したところをライフセーバーさんにタイミング良く助けられたのだが、その時のライフセーバーさんと三女とのやり取りは全て英語だった。

その若い男性のライフセーバーさんは三女を容貌からしててっきり白人女性だと思い込んだ。三女は三女で英語しか話さないそのライフセーバーさんを日系外国人だと思い込んでいたのだ。

さて友人とわたし。我々は長いサーフボードに前後に座り沖を目指して進む。まずはボードに慣れる訓練だと後方のわたしはオールでせっせと漕ぐ。友人は最初上手いじゃんとわたしのオールさばきを褒めてくれていたがそのうちに無言になった。

海風を体に受けて進む。後で三女に聞いたが我々は浜から見たらびっくりするくらい遠くまで漕いで行ったらしいのだ。三女は目視出来なくなったところで警察を呼ぶべきかとも考えたと言った。

我々はそのときはそれでもリーフに立つ乗れそうな高波まで行き着くことをしないで無事にビーチに戻ってきた。驚くほどの遠浅な珊瑚礁の浜。遥か彼方で波乗りをするボードと人影を背に浜へと戻ったのだった。

わたしはオール扱いにも慣れて自由にボードを進めることが出来るようになったがこれはサーフボードであってけして筏(いかだ)ではないはずである。そして何故わたしばかりが漕がねばならぬのか。

試しにわたしは友人に声を掛けてみた。

奥様、もうそろそろ浜に着きますがひと休みなさいますか。

友人が言った。

ええそうね、冷たいものを飲みたいわ。

いい加減代わってよ。わたしはオールを友人に渡そうと前屈みになった。途端にボードがぐらつき我々はドボンと水中に振り落とされた。動くときは言ってよ。友人は怒っている。そうか。急に動いたらダメなんだな。サップはな。

わたしはサップを降りたのちは長い時間をひとりでシュノーケリングし続けた。そしてこの浜の魚たちは麩が嫌いであった。一旦は麩を口にするもののなんだ麩かと吐き出すのである。唸る。

ライフジャケットを付けていないわたしを心配してか次女が時折近くに来た。次女は高校時代は水泳部。海で見る次女はいつ見ても仕事中の海女にしか見えないのだ。若き海女はいつでも真剣に海を見ていた。

友人はそのころひとり沖の波を目指してサップで進んでいたが目の前の波に乗ろうにも横風であらぬ方角へと運ばれてしまいそうになりボードを泳いで押しながら岸まで戻ってきた。

強い風でさ、危ない、このままだとアメリカへ流されちゃうって思ってさ。風ってのは目には見えないんだね、遠くからはわからなかったね。

唸る。

サップ後の我々はとりわけ半端ない筋肉痛に襲われた。

まあ次女の言っていたボブサップ説も当たらずとも遠からずであったのだ。