バッハ協奏曲ニ短調BWV974ー2

朝から激しい雷雨で外出は取りやめソファで音楽を聴いている。土曜日だから外壁工事もない。昨日は塗装はほぼ完了して東側の足場の解体作業が始り、一日中バラした足場材のパイプをやり取りするおじさんたちの掛け声が響き渡っていた。よく通る声。「ほーい」と「おーい」の中間の「ホォーイ!」。円やかでいい声。私もちょっと真似してホォーイ!

今日はホォーイ!が聴こえない。

読書の気分でない時はたいていナンプレをしている。数独。パズルだ。角川文庫「プロ級ナンプレ」を常備している。ストックが切れてきたのでAmazonで買おうとしたのだが新品が無かった。以前に中古を購入したら届いたのが誰かのやりかけでビックリ。Amazonは書き込み有りでも値が付くようだ。私はパイロットのシャープペンシルで書き込むから罫線や数字の色が濃すぎると数字が上手く読み込めない。いろいろ試したけれどこの角川文庫以外は使う気がしない。だけど書き込みがあるかもしれない本には1円も払いたくはない。

残り少ないナンプレをしまい込み、もう暗記する位読んだ本だけど朝田今日子「オリーブオイルのおいしい生活」(文春文庫PLUS)を手に取ったところで、流しっぱなしのBGMがバッハ協奏曲ニ短調BWV974ー2に変わった。

この曲を初めて聴いた時なんだかバッハじゃないみたいだな〜と思った。図書館で借りたグレングールドの作品集だった。

グールドはピアニシモが素晴らしいと言っていたのは誰だったかな。S子さんだ。S子さんは長女のピアノの先生であり、私の占いのお客さんでもあり、やがて私たちは仲良しの友人となった。私はS子さんに少しの期間ピアノを習っていた。もう20年も前のことだ。

S子さんはグレングールドをそんなに好きではなかった。演奏家の人には時々グールド嫌いがいる。私はクラシックはグールドしか知らなくて、私がいつかそんな話をしたからS子さんは私に気を遣って時々グールドを取り上げたりした。私のレッスンで「ここんところ、もう無理っていうくらいのピアニシモでやってみて」なんて言ってたな。

「30歳の貴方にしか出せないピアニシモだよ」とか「女の人生をかけたピアニシモ」とか言うS子さんはそんなS子さん自身が輝いていて素敵だった。

S子さんは子どもを亡くしたり離婚したりしたけれど私は泣いた顔を1度も見たことが無い。私という人間に包容力が足りなくて私に心を許せずいつも虚勢を張っていたのかもしれない。

S子さんは女の子っぽい小物やレースのインテリアが大好きだったけれど中身は戦国武将のような人だった。運転は荒っぽくて助手席の私はいつもめまいがしてた。

ある時は2人で夜、前衛舞踏の公演を観てから地下鉄に乗り、モンゴル料理のお店に行った。そこはS子さんの行きつけのお店だったんだけど、馬頭琴の演奏を聴くことが出来るのだ。大きな丸い形の餃子を食べながら私は馬頭琴というものを初めて聴いた。S子さんはモンゴル語を勉強中で演奏家の男性と何やら会話していた。前のめり、生きることをやめない。そんなS子さんが私に占いなどお願いしてきたのはやっぱり私への気遣いのひとつだったのかもしれない。

占いなどという怪しげな権威は今はないけれど今の方がS子さんとも一層親しく成れるように思えるのだ。しかし精神病を発病してからの私は以前にも増して人見知りが強くなった。

バッハ協奏曲ニ短調BWV974ー2は実はバッハの曲ではない。バッハよりももう少し古いAマルチェロという貴族の作曲したオーボエの曲だ。バッハはマルチェロのこのセンチメンタルなメロディをチェンバロで弾いた。

coverしたんだね。つまり。 バッハもなかなかやるね。

そしてグールドはスタインウェイに屈み込みピアニシモで弾いている。グールドは感覚の人。その正直な演奏に惹きつけられる。

イタリア映画「ベニスの愛」の中では白血病の男性がオーボエのこの曲を演奏している。悲しくてやりきれない。胸が苦しくてどうにもならない。

S子さんならばこんな湿っぽいピアニシモ鼻にもかけないだろう。そして虚勢を張っていたのはS子さんだけではない。ただ人と打ち解けて話すというだけのことだが、それがむつかしいのは病気のせいか。考え方次第で病気が治るならそんなに楽なことはない。虚勢でもなんでもいい。臆病になったり考え過ぎたりしないで日々過ごしたいものだ。

肩の力を抜いてバッハのピアニシモを聴いている。

バッハに会えるなら聴いてみたい。

なんか辛いことあったの?