グラフィック社 浅本充 「a day in the BAKESHOP」

独りで何処かへ行きたい。診察でわたしがそういうとそれは死にたいということなんだろうと主治医が返してきた。わたしは大袈裟な、そうではないよと直ぐには言い返せなかった。

ごく最近だ。何処にいても居場所がない。落ち着かない。いやそれはおかしい。わたしは充分幸福な日常を送っている。それなのに息苦しく脳内が辛いのだ。主治医にズバリそんな気持ちを見透かされた。

単にこれは躁状態なのだろうと思う。やり過ごすしかない。死ねるなら、何かをプツンと切って死んでもいいということならば正直楽だ。多分誰にもこんな気持ちは理解されないだろう。死にたいなど傲慢だと怒り出す人もいることだろう。説明は難しい。躁状態の脳は苦しい。正直に書いている。

この浅本充の本を見る。ニューヨークというところへは行ったことはない。これは気持ちが楽になる不思議な本だ。お気に入りの頁は毎日変わる。

ウエボスランチェロス(huevos rancheros)を今日は眺めている。一枚のトルティーヤと目玉焼き。そう言えばメキシコ帰りの知人がメキシコ人はトルティーヤはスーパーで買ってくるんだよと言ってたな。

昨日は名古屋へ行って公共住宅の入居申し込み手続きをした。年明けから主人と再び二人暮らし生活に戻ることにした。カンボジア移住を諦めたわけではない。延期である。今は無理だということなのだ。

手続きが終わり栄で名古屋市の市バスに乗って三女の家まで行く。名古屋市の市バスは全く凄い。地下のターミナルは近未来的だ。基幹線は市電時代からの路線だろうか。わたしはバス好きだ。子どもの頃はバスの車掌さんに成りたかった。

三女の家でゴロゴロしながら田口護さんの珈琲本を読んでいたら三女がYouTubeNHKの「プロフェッショナル」という番組を見せてくれた。おお、おおおお、田口護さんだよ、うわー喋ってるやん、優しそうなおじいちゃんだ。

ゲイシャ。飲んだことはないが素晴らしく美味しいというパナマの珈琲だ。ママ相変わらずおじいちゃん好きだなあ。三女が笑う。田口護さんどうか長生きしてこれからも長く美味しい珈琲豆を焙煎してください。

そのあとで三女とふたり近所のカフェへ行った。我々には初めてのカフェだった。いいカフェであった。ボックスはふたつでカウンター席が10くらい。狭いけれど落ち着く感じ。オーダーが入ってから豆を挽いている。わたしはブレンドを注文した。酸味が少なく甘みがある。こういうのを美味しいと言うんだろうなと思うのだが何か物足りない。いやこれも珈琲修行だ。わたしはいつか珈琲の味わいなるものに出会いたいという願いを持っている。

三女の紅茶のカップはピエロが踊っている柄の可愛いやつだった。カップを外すと現れるソーサーの真ん中の赤い渦巻きに見惚れた。

夕方でお客さんが居なかったのでいろいろと尋ねた。単品の珈琲は月替わり。カプチーノとメニューにはあるけれどエスプレッソは作ってない。豆は神戸の豆屋さんにお任せだと言っていた。店内にはバロックが流れていた。値段の設定が高いのはおそらく仕入れている豆が安くないからだろう。

婿が帰り主人がわたしを迎えに到着して四人で夕食。カフェの話になりママぶりっこしてたよ、あたし珈琲を少し勉強し始めていて、とか言っちゃってさと三女が笑いながら説明する。ぶりっこで悪いか。本当のことを言ったまでだ。

今日は珈琲豆の精製と味と香りの関係について読む予定だ。もっと早くもっと理解力を持ってぐんぐん読み進めたらいいのだがそういう訳にはいかない脳だ。

昨日のブレンドを美味しいと思えるような繊細な感性が欲しい。YouTubeの田口さんは真剣な表情だった。珈琲ってなんだ。珈琲ってそんなに一生懸命になってしまうものなのか。

何故君は珈琲を調べるんですか。

パトリックが言う。

何故ってこの地球上に珈琲が存在するからですよ。地球とかマジ意味わかんないしー。‥‥パトリック女子か。