連載小説 小熊リーグ㉗

アパートを借りるに当たり通院に便利な場所を選んだ。白川医師の大学の付属病院へは自転車で10分。しかし今日は雨。普通免許も自家用車も持たない僕は雨の日は歩くしかない。 バス通りを学生の列に混ざり病院の建物を目指し僕はひたすら歩いた。付属病院は郊外の広々とした敷地に数年前移築されたばかりで大学の施設の一部は今もまだ建築中である。警備員が吹くピッピッという笛の音と重機の轟音の中、赤信号で僕は止まった。

午前中いっぱい掛かって診察を終えると僕は正面玄関のロータリーから出ている地元の福祉向けの小さなバスに乗った。手帳を見せれば駅まで無料で連れて行ってくれる。雨は上がっていた。

バスが駅に着く。僕は病院終わりで駅のスターバックスコーヒーで新海氏と待ち合わせをしていた。硝子越しに店内を覗くと新海氏はボックスシートで難しい顔をして何かの本を読んでいた。

僕がレジカウンターの前をスルーして新海氏の席へ行き病院すごく混んでてと遅刻を詫びるともう昼だから何処かでランチしようと新海氏は本を閉じ席を立った。

僕たちは空腹だった。平日だったが正午前で駅前の繁華街は混雑していた。僕も新海氏もこの繁華街は初めてだ。蕎麦屋、ラーメン屋、オムライス、カレー。なんだかんだ言いつつ結局吉野家の牛丼で僕たちは昼を済ませた。

僕たちは再び駅へと向かう。いそいそと切符を買い改札を抜けホームで電車を待った。上りの快速はすぐにやって来た。

楽しみだな。僕がそう言うと新海氏は俯いてつり革に両手の体重を掛けるような仕草で猫のように体を伸ばした。電車は高層ビルが幾つもそびえ立つ都市の駅に着いた。

コンコースの人混みを早足でゆく。曇り空のスクランブル交差点を横切るとすぐ信号が変わった。舗道を歩く。新海氏が後ろを行く僕を振り返ってはあれこれと語る。彼はポケットに手を突っ込んで肩をすぼませ嬉しそうに語り続けた。

2ブロックほど歩くと閑散とした場所へ出た。信号の無い広い交差点を大股で走り抜け、細い路地を右に折れた。しばらく空き地が続き、何かの絵画展のカラフルなポスターが道路に立て掛けられトリコロールのテントを軒先に出している五階建ての細い古いビルに着いた。新海氏はポスターの立て看板を持ち上げてもう一度立たせて直してからさあどうぞと言い、木製の扉を開けて僕を先に中へ通した。階段を三階まで上る。中へ入る。木調の床と壁に囲まれた部屋だった。真ん中辺りが二枚の大きな衝立で仕切られている。

「あら、お帰りなさい」咲子さんだった。

「来てたんですか」

「お手伝いよ」咲子さんは腕組みをして衝立に掛けられた白黒写真の大きな額を一枚一枚ゆっくりと眺めていた。

「ここ、君の席」新海氏は部屋の角にあるスツールを指差した。

「座ってればいいんだね」僕はそう言って笑った。僕は翌日から始まる新海氏の個展の受付係を頼まれたのだ。新海氏が15年振りに写真展をすることになり僕の方から手伝いを願い出た。新海氏は僕を一枚の写真の前に連れて行き感想を尋ねた。

その写真を見たとき、僕は胸がいっぱいになった。それは僕が初めて入院をしたあの山の上の病院の、あのベンチから見た山の景色だった。

「これは君が白川先生をぶちのめして追い出された記念の一枚」新海氏が隣に来て言った。

「‥‥うるせー」僕は笑った。