このトンボの本は結構最近の本だ。若菜晃子さんは山と渓谷社にいた人らしい。わたしは「山と渓谷」を時々買う。読んだあとは興味深い商品の広告などを切り抜いたりする。
わたしはペンケースに熊笛と方位磁石をいつも入れている。それはときおり使うことがある。わたしは必ず半円形の分度器を入れている。しかし分度器は分度器としては1度も使ったことはない。時々取り出して目盛りを眺める。30度、45度、60度。90度、120度。
今日もわたしはひとりぼんやりしている。視界の中で家具の配置のバランス、窓枠の大小、壁の染み、壁紙の柄など、そういうものが作り出す角度を目分量で測る。だから分度器の目盛りには感嘆する。これは1番素敵な模様だと思うのだ。
山の写真が好きである。わたしは山の尾根を見るのが好きである。富士山のような左右対称の尾根にはあまり興味が無い。伊吹山は実際に通院で月1で見ている。槍ヶ岳や乗鞍岳は雑誌の写真だが駒ケ岳、羊蹄山などは旅行で見た。
固いパンのことが載っていたよ、と友人が教えてくれ、早速この本を手に入れた。固いパン、つまり乾燥したパンについていろいろと考える。
「アルプスの少女ハイジ」でハイジはフランクフルト時代、アルムの山に住むペーターのお婆さんに食べさせたい一心でふわふわと柔らかい白パンを溜め込んでいた。ではアルプスの山で食べている黒パンは固いのかと考える。とあるパンの研究者の本にアルプスではパン種は正月の鏡餅のようにカチカチに乾燥させて棚の上で放置させてあるとあった。
ハイジはふわふわのパンを食べて美味しかったのだろう。だからお婆さんにも食べさせたいと思ったのだ。
北海道旅行でライ麦100%のプンパニッケルを携帯したが夏だったこともありカビが発生した。乾燥は長期間の携帯食の基本だと考えた。
この本自体は郷土菓子のエッセイなので旅も山登りも無関係なのだが作者が山と渓谷社の出身だったので少し驚いている。ryoさんも食べたとコメントをくれた香川の石パンは四国のお遍路参りの携帯食だった。
話がすこし飛ぶような風だが中世以前の朝鮮半島には峠を越えて集落から集落へと物資を運ぶ仕事があった。険しい山を背負子で荷物を背負い登山する。若い頃わたしはわたしの祖父母の生まれ故郷の辺りの歴史を調べていた。それでそんなことを思い出すのだが山歩きが好きなわたしはそんな仕事に憧れたりしたものだ。実際は盗賊が待ち構えていたりして危険な仕事であったらしい。
わたしが発病した年にわたしは一家5人で山里に一戸建てを借りた。普通免許の無いわたしは毎週ときおり軽トラで行商にやってくる魚屋から魚を買い夕ご飯の支度をしたものだ。
軽トラの荷台は改造されており冷蔵庫が備えられてあり、清潔な水がタンクには蓄えられていた。魚のことなど何もわからないわたしは毎回500円をおじさんに渡す。おじさんはその日の朝に漁師船から買い上げた新鮮な魚を幾つか選んで目の前で造ってくれた。
これは刺身にしようかね。これは塩がしてあるから焼いたらいい。わたしは説明を受ける。魚の名前、その食べ方から鮮度の見分け方までおじさんには沢山のことを教えてもらった。
「このあとこの魚たちはここから少し離れた場所に住む⚪︎⚪︎さんのところへ持っていくんだよ」おじさんが言った。
ある時魚屋のおじさんがぱったり来なくなった。わたしは坂道を登り⚪︎⚪︎さんを尋ねた。⚪︎⚪︎さんは年配で夫婦二人暮らしである。
そして魚屋のおじさんは脳腫瘍で入院したと⚪︎⚪︎さんから知らされる。お見舞いに行く?いいえ行きません。しばらくして魚屋のおじさんが亡くなったと⚪︎⚪︎さんから電話がありその日は⚪︎⚪︎さんと一緒にお茶を飲んだ。
その日⚪︎⚪︎さんは私たち夫婦は四国のお遍路参りを毎年欠かさないのだとわたしに打ち明けた。何故そんな辛いレクリエーションをするの?わたしははてなが止まらなかった。
⚪︎⚪︎さんのご主人は戦犯で巣鴨に収監されたことがあったという。南方で残酷なことを多くしたと、それを思い出しては四国へ行かずには居られないのだと言った。間も無くご主人は病気で亡くなった。
去年久しぶり⚪︎⚪︎さんを訪ねたがアルツハイマーで彼女はわたしを思い出せなくなっていた。魚屋のおじさんのことなど介護していた長女さんと話してわたしは山を降りた。
固いパンはわたしをあちこちへ連れて行く。わたしは幾つもの峠を越える。遠い眼差しの向こう側を誰かと一緒に見た記憶の峠。
実際に峠を越えてやってきた鯵やカマスは甘くて美味しかった。ほろ苦い鰻の肝はコロコロと砂糖と醤油で焚いてあり、夕ご飯のおかずをお裾分けするみたいにしておじさんはわたしが差し出した小鉢にそれを分けてくれた。
三河湾のアカシャ海老は今が旬である。
固いパンの味わいをわたしが噛み締めてみたいと思うのにはいろいろな訳がある。
復讐されるか死刑になるかしたらまだ良かった。死んだら楽だよ。後悔することは死ぬより辛い。
戦犯とその妻は何度もそう言っていたのだ。