猫を飼うことはわたしがしたくてしているわけではない。わたしの夫は猫がたいへん好きで道端で猫を見かけるとあれ見て、ほら猫だ、と声を出して言わずには居られない。わたしにも目があるから猫は見えてるからいちいち言わなくてもいいから、とわたしは段々意地悪になっていく。
結婚して一緒に暮らすようになってこれまで猫が居なかった日は無かった。おかげで娘たちは猫の居ない風景が続くと気持ちが耐えられずに実家に帰るとすぐに何はともあれ飼い猫を抱く。猫不足と呼ばれるこの症状はわたしたち家族にだけ伝わるアディクションだ。
わたしは犬が好きだが真実を言えば犬はとても怖い。沖縄と北海道で繋がれていない大型の犬に遭遇してパニックになったことがある。
まだ幼児のころわたしは自分の家の飼い犬に襲われた経験があり、その少し獰猛な雑種はそのことがきっかけで我が家を去った。詳細は上手く思い出せないが下手な近づき方をした幼児のわたしにも責任はあったろうし、監督していなかった親たちにも過失がある。
犬を見るとわたしは悲しみや恐怖をオートマチックに発するし、それをDID的に片付ける。つまり過剰反応するのだ。犬へのこだわりは実は悲しい飼い犬との別れがその背後にある。
わたしはKANが好きだ。KANが好きなのは別にKANさんに襲われた訳ではない。KANが好きだというのはちょっと恥ずかしい。へえー、⚪︎⚪︎さん、KANが好きなの?愛が勝つってやつでしょ〜。などとたいてい笑われるからだ。
だからあまり人前ではKANが好きと言わないようにしているのだが最近わたしのKAN好きは(ごめんなさいKANさん。まるで犬猫みたいに言っちゃって)ピアノ好きから派生するのではないかと考えるのだ。正直犬猫を飼うよりもピアノを一台リビングに置きたいといつも思う。
ピアノはアップライト型で茶色いカワイのやつがいいな。知り合いがヤマハの店舗を経営していたせいでわたしにはカワイへの憧れがある。
ピアノの音が大好きだ。ピアノが家にあった頃には毎年六月に調律さんがやって来た。わたしはあの調律作業の時の独特のメロディがたまらなく好きだった。調律が終わりお茶を飲みながら調律さんとピアノ談義をする。
1オクターブを12に分けられる訳がないよ。へえー。じゃあどうするの。そこが調律っていうことだ。均等には分けられないわずかな誤差をどうするか、それが調律の腕だね。
調律さんは調律とピアノ談義を終えると必ず庭を一周してから帰った。ミョウガを取ったり、アケビのツルを持ち上げたり、藪柑子を眺めたり、落葉を始めた楠の木を長いあいだ見ていたり。
夫は最近マイカー生活を辞めないかといい始めた。わたしは夫が何を考えているかはわからないがとにかく信じてついていこうと考える。
ピアノを置ける家に住むことはおそらくもう絶対に無い。夫が猫を断つのならわたしもピアノを断つよ。でもさ、ペット可のアパートに住めばいいよ。夫は猫を断つ気は無いようだ。
犬への偏執はわたしの中から消える日はおそらく無いだろう。それでいいと思っている。そして繋がれていない犬には今も近づくことが出来ないが。
まあ熊どころの話では無いわけだ。
KANさん。
いいですよ。