フランス風序曲 ロ短調

友人からレコードプレーヤーを貰った。要らなくなった中古のプレーヤーだ。手動でコンパクト。三女の婿がスピーカーに繋いでくれた。スピーカーといっても極軽量のかわいいやつだが一応新品だ。

主人と2人レコード盤を買おうと中古レコード屋さんを何軒かみて回る。何がいいかな。1000円も出せば程度のいいのが買えそうだ。うーんやっぱりクラシックにしよう。

見つけたのはグレングールドの「フランス組曲」。グールドの横顔が大写しになった青いジャケットの2枚組。大昔のレコードだ。懐かしい。確か父が持っていた。1500円で予算オーバーだけど自制が効かない。レジへと進んだ。

グレングールドのバッハは埼玉時代にCDで揃えた。その中でも「フランス風序曲」は大好きだ。繰り返し繰り返し聴く。

レコードプレーヤーを貰ってきたのはアナログ音を聴いてみたいと思ったからだった。音楽というものはなかなか不可解だ。聴くのはもちろん耳で聴くが楽しむのは脳。メロディは感情を湧き上がらせ、閉ざされた記憶を想起することもあったりする。不思議なものだ。

アナログ音はデジタル音の含まない音を発するらしいよ。私のうんちくにコントロールされた主人は早くレコード盤を聴いてみたくてたまらない様子。私もわくわく。早々と帰宅してセッティング。うーんなかなかうまく針が落とせない。何度か失敗してやっと音が出た。

一見して(聴くんだから一聴かな)アナログ音だからどうということは特になかった。やっぱり生演奏がいいな、ねえ、演奏会行こうか?主人は昼寝してしまった。仕方ないから私も昼寝。

中学1年の時だった。音楽の授業でチャイコフスキー交響曲「悲愴」第2楽章を聴いた。綺麗な曲だった。どこのオーケストラかは不明だったけれど私は始めから終わりまで聴き入ったものだ。

学校から帰り日々の仕事(当時は家事や家業の手伝いなどが忙しかった)を終え、深夜父のオーディオルームに侵入して父のコレクションの中に「悲愴」を見つけた時は嬉しかった。思い出すのも恐ろしいが決して触ってはいけないとキツく言われていた父のオーディオ機器のスイッチをパチンと入れ、音が漏れてはならぬとヘッドフォンで「悲愴」をひとりひっそりと聴いた。

フライング気味のバイオリンの音、4分の5拍子の新鮮な感じ。私はその時交響曲の洗礼を受けたのだった。

私は勇気を出して父に演奏会へ行きたいと頼んだ。父は許してくれたのだろう。私はどうやって調べたのかは覚えてないがひとりチケットを買い地元の交響楽団定期演奏会へ行った。

ところが当日、演奏会が始まるやいなや私は深い眠りに落ちた。だから生まれて初めての演奏会のことはそれだけしか覚えていない。とにかくぐっすりと眠ったことだけは確かだった。

私はその後、半年に一度の演奏会に欠かさず出掛けた。そして毎回判で押したように、演奏が始まるや座席に持たれグーグーと寝た。

一緒に行く友人もいなければ演奏会の感想を尋ねられることもないのだからなんら問題はなかったが、私としてはああまた寝てしまった、今度こそ寝ないぞ、と毎回思ってはいた。

良質の音楽にはα波が関係しているらしい。α波は脳のリラックスと深い関係がある。ローカルな交響楽団の演奏自体はもしかしたらどうってことはなかったのかもしれないが、私はおそらくα波に満たされてリラックスをし、さぞかし良質の睡眠をとったに違いない。

学校も家庭も、当時の私には憩いの場所とは言えず私は慢性的に疲れていた。心を打ち明ける友人は特にいなかった。DIDのヘンテコな脳みそはくよくよ悩んだりメソメソ泣いたりという行動を許さない。疲れを自覚することはなかった。演奏会での良質の睡眠は溜まりに溜まったストレスを癒したのかもしれない。今はあの時ほど疲れてはいないからあんなに眠いということはない。

大人になるにつれ交響曲を聴かなくなったのはDIDが進行したからだろうか。オーケストラの大量の音の重なりが今は苦手である。

フランス組曲はそもそもチェンバロの曲だ。グレングールドはピアノで弾いている。レコード盤で聴くグールドのバッハはやはりCDとは違うようだ。幼い頃の家の匂い、埃っぽい部屋の空気、西陽の強くあたる磨りガラスの窓。私は思い出す。アナログ音は重く聴こえるがそれがアナログ音だからなのか、グレングールドだからなのか、そこんところははっきりとはわからない。

記憶の到来は十分予期していた。

レコードが終わった。 私は立ち上がって針を上げた。

深夜のチャイコフスキーと演奏会。グールドのノンレガートと幼い頃見た父の後ろ姿。

針を上げると部屋は静けさに包まれた。