凍える口

一昨日レタスを沢山貰って娘たちや婿たちとレタスをひたすら食べた。レタスを食べると眠くなるらしいが、その夜はころっと寝てしまった。間違いない。レタスが効いたのだ。

不調と軽快が波のようだ。

今朝は不調。2匹のカンガルーに追いかけられる悪夢を明け方見る。

部屋の隅に感情の無い、能面のような顔をした子どもの私が居る。

洗剤を買いにコンビニまで歩いた。カンガルーが現れるような気がして辺りを見回す。

「凍える口」キムハギョンを読んだのはだいぶ昔のことだ。「在日という根拠」竹田青嗣を読んでキムハギョンを知った。「鑿」「あるこーるらんぷ」「郷愁は終り、そしてわれらは」と読み全集を買った。キムハギョンは吃音という個人的な領域の生きづらさを書いたが、私は読みながらキムハギョンに強く共感した。

オマエは○○なのだからこう言え、という強制は結構何処にでもある。DIDはこうだ、トーシツはこうだ、アスペはこうだ。云々。在日はこうだ。グレングールドはこうだ。幼児はこうだ。

どうして今頃キムハギョンを思い出したのかな。私はキムハギョンに心酔していた。彼の小説はキトキトしていた。彼の文章は無駄肉が無く、引き締まっていた。理系だった。彼自体がアルコールランプだった。

あれは小学3年の時だ。深夜2段ベッドの上の段で寝る兄がラジオを聴いている。抑揚の効いたDJの口調とくっくっという兄の笑い声。私は耳を凝らしてそれらを聴いていた。

図書館へ入り浸るようになってからだからその時はもう4年生だったのかもしれない。私は子ども向けに書かれたアマチュア無線の雑誌を見つけた。そしていつかラジオを自分で作ってみたいと考えた。

私は勇気を出して父に頼んだ。ラジオが欲しい。自分で作りたい。そしてアマチュア無線のライセンスを取得したいのだと。

父は私の顔をじっと見て言った。

いいか、俺たちは無理だ。無線の免許は無理だ。えっ、なんで?在日だからだ。えっ、在日って何?いいか、在日が無線なんかやったらスパイと言われて警察に捕まって牢屋にぶち込まれる。だから諦めろ。

父の説明は短かった。

私はザイニチの漢字変換がその時は出来ない。そしてスパイ。スパイって?警察。牢屋。ザイニチスパイ警察牢屋。

当時父と叔父たちは警察に捕まって牢屋にぶち込まれる事が時々あった。しかし父のぶち込まれたのは留置所と拘置所で裁判沙汰になったことは無い。でもそれで十分だった。私は警察が怖かった。

キムハギョンを読むとなんだか父や叔父たちが急に賢く穏やかになったような、クールでカッコいい素敵な感じになったようなそんな気がしたものだ。祖国がどうの、アイデンティティがどうのとむつかしく論じる必要はない。キムハギョンは在日なのにカッコいいのだ。それだけでキムハギョンが好きだった。

ある年のお正月にキムハギョンは自殺した。

私はキムハギョンに裏切られたように感じて何日間も動揺した。少し悩んだが私はキムハギョンの本を全部処分した。怖かったのだ。まるでキムハギョンの声が聞こえるようだったのだ。

君も在日だろう?

君も辛いんだろう?

死んだらいいさ。そうだよ。在日はやっぱり無様で不幸さ。俺もそうだった。そうさ、結局ダメなんだよ。

キムハギョンを思い出したのは不調の兆しだな。

あのね、私は死なないよ。言っとくけど私はDIDでトーシツで在日だよ。トラウマでフラバでパニックだよ。馬鹿。キムハギョンの馬鹿。なんで死んだんだよ。畜生!

丘に立って遠くを見るよ。ほら、トラウマが虎と馬になって目の前を駈けていく〜。

レタス食べよ。今夜もしこたまレタス食べてロヒ無しでぐっすり眠って見せるからな。