文化出版局「プーさんのお料理読本」「プー横丁のお料理読本」

小川未明という作家がいる。「赤いろうそくと人魚」は有名だ。人間の欲望と異端を排除する集団心理。小川未明は日本のアンデルセンなどとほのぼのと評されているが否、風刺と批判に富んだ一刻な作家である。全く個人的な好みだが私は小川未明は苦手である。

暗い。悲しい。救いがない。

小川未明を思い出したのは何故だろう。

私の脳内交代人格の中にはどうしようもなくネガティブ思考で、うんざりするほど愚痴っぽい、そんな人格がいる。小川未明を滅法気に入って読んでいるのは彼女である。

見捨てられ不安でいっぱいの構って欲しい女の子。なーんかかっこ悪いよ。それでいいの?

最近私は彼女と対峙する。

中野重治という作家がいる。大御所だ。もうとっくに亡くなっている。中野重治は小説も散文も詩もたいへん優れたものを残した。自らの感性を信じて進んだ。借り物の言葉を嫌い、人からの評価を恐れなかった。

どうして手元にないのか。誰かにあげてしまったのだろうか。確か文庫本の「クマのプーさん」のあとがきを中野重治が書いていた。その中で中野重治は児童文学こそ近代日本文壇に無くてはならない分野であると確か論じていたのだ。探そう。読みたい。

私は児童書が好きである。もちろん子供だましの奇をてらっただけのイメージ先行型のこむつかしい大人好みの児童書は大嫌いだ。幼児はこういうものが好きだろうというステレオタイプ。やたらに教訓的。全くの独断と偏見に過ぎないがそういうものがあるように感じている。

児童書はとにかく丁寧でなけれはならないだろう。子どもが理解出来なければ意味はない。それらはおよそ子どもが発するであろうはてなに忠実に対応しているのだ。子どもの発するはてなは深刻だ。それはスピリチュアルペインである。どうして人は生きるの?どうしてお父さんお母さんの言うことを聞かなければならないの?どうして牛や豚やニワトリは食べられてしまうの?

子どもは心の痛みを吐き出す当てがない時、そしてそれらの疑問を適当にあしらわれた時、一旦保留するか、もしくは出来合いの答えに甘んじるそんな図太さも持ち合わせている。子どもとはいえ人間なのだ。易きに流れる弱さには打ち勝てない。対人スキル、社会性と評価される偽りの処世術をやすやすと身に付ける。しかし1度麻痺した心は厄介だ。

クマのプーさん」のクリストファーロビンはぬいぐるみのクマを階段を引きずりながら降りてくる。

この文化出版局のお料理読本シリーズはレシピ本である。

私はイギリス料理のレシピを集めているが、このプーさんシリーズは素晴らしい。料理というものが多くの必然と食材や調味料の特性、何処で食べるためのものか、どれほどの手間を必要とするものか。この2冊はそういう意味で面白い。

私の脳内には子ども人格が数人いる。クリストファーロビンが何人かいるのだ。彼ら彼女らはこの2冊が大好きだ。

「プーさんのお料理読本」の方のp34クレソンのサンドウィッチにマーマイトなるものが登場する。マーマイト。イギリスにしかない発酵食品だ。

マーマイト。

マーマイトって美味しいの?脳内キッズたちの脳内はてなは止まらない。いつかね、そのうちね。カルディにあるかもね。